2008 11/26 (水曜日)

癒しの本質

こんにちは、こはりです。

先日、縁あってレイキのアチューンメントを受けてきました。

「内在しているが、機能させていない能力を目覚めさせ、活性化させる方法」

という定義の通り、アチューンメントに対して僕は特別に神秘的な印象は持ちませんでした。
中には劇的な変化を感じる人もいるのでしょう。

僕は多かれ少なかれすでに持っている能力、つまりオールオアナッシングでなく、重要になるのはアチューンメントを契機とした各人のメンタリティなのだと感じました。

それは“本物の道”たりうるものに共通する本質に他ならないでしょう。

アチューンメントの効用は一種の通過儀礼、それ以上でもそれ以下でもなく、アチューンメントを契機とした意識、または身体感覚の覚醒もしくは変容が起こることに意味があるのだと。
具体的に言えば、手に癒す力があるという信念が確固としたものになり、手に対して特別な意味付けがなされるようになること。
同時に他者へもしくは自己に対して確信をもって手を当てる頻度を多くするということが、感度を開発するのに十分であること。

レイキの特徴として気功と比較されるものに、エネルギー源が気功の場合、人間個人であるのに対して、レイキは自然または宇宙といった遍在する概念であることが挙げられます。

つまり意識的に出すもの、に対して無意識のうちに出るもの。

気功が事前に強い意図を必要とするのに対し、レイキはまったくそれを必要としないということは施術者の疲労度、消耗度に大きな違いを生むことになります。
これは野口晴哉の「輸気」から「愉気」への変遷や、「経絡指圧では、相手を治すために指圧する、という考えを捨てて、もっぱら「証をみる」ことに専念する方法をとっている。素人の推圧には「言われた通りに」という素直さがあるが、プロは圧して治そうとするから我が出やすい。治すのは患者自体であるのに、指圧の技術が治すような錯覚をいつか持ち出すからである。」と喝破した増永静人の思想に共通するものでしょう。

武道の世界においては島田明徳が「「心」の囚われが消えることで、筋肉の深い緊張が取れて、本当の意味で身体を自然に動かせるようになる」
「「やろう」と思わなければ「やれない」しかし「やろう」という思いを引きずったままでは自然には「やれない」この矛盾を解決することが人間の潜在能力を引き出す上で最も重要な鍵になります」と述べています。

増永静人はまた「「証をみる」とはあくまでも患者の生命を信頼して、これに従うという態度が大切なのであって、証が当たる、当たらぬは第一義ではない。患者のすべてがみえてくるとき、それは治療者の我がなくなっているのである。その心が患者自らも気づかぬ腹の底まで手当が及ぶおさえ方になっているのである。」と述べています。

気が出る、出ないは第一義ではない…

見かけの技術は数多くあれど、結局還元するのはその人自身であること。

“すべてはつながっている”

これ以上の真理はないように思えた。

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