する贅沢から、しない贅沢へ

2009 5/26 (火曜日)

今なぜ修行系なのか?

こんにちは、こはりです。

現在、書店などで発売中の週刊誌「女性自身(6月9日号)」にやすらぎの里が載っています。

「ちょいスピ 修行系ホテルへGO」という記事。

座禅、写経、滝行、気功など、ちょっとスピリチュアルな「修行体験」ができるホテルや宿坊が静かなブームを呼んでいるそうです。

実際やすらぎの里にも「健康増進」という動機のほかに、転職や転換期など人生の節目に立ち「心身をリセットしたい」「インスピレーションを得たい」という思いから断食を志願される方もいます。

これは古来より日本人が尊んできた「ミソギ」が時代を超えて今もなお息づいているのだと感じます。

目に見える肉体はもとより、目に見えない心にも働きかけられるのが、断食の特徴といえるのではないでしょうか。
ひとつらなりである心と体、人間と自然の恵みといったものを肌身で感じ、感謝と笑顔のうちに帰路につかれるゲストの方をお見送りして、つくづくそう思うのです。

断食は世界のあらゆる宗教で、それぞれの方法の相違はあっても修行形態として実行されてきました。

イスラム教のラマダンは有名ですが、ブッダの修行法にも取り入れられていました。
キリスト教やヒンズー教、道教、ジャイナ教などにも散見されます。

インドの国父マハトマガンジーも断食を実践しました。
インドが単に政治的な独立を果たしても意味がない、インド人一人ひとりが自己の欲望を統御し、非暴力を実現しなければ、独立しても意味がないと訴えました。
欲望を抑えられない国民が独立した国家を手にしても、それはイギリスの植民地支配となんら変わりがないと考えたからです。

実際、同じ民族、国民の間であっても思想信条、宗教の違いで争っているところはいくらでもあります。

特定の宗派の教えを超えた普遍的な宗教的価値を共有するためにガンジーは断食を選んだとされています。

この世界で別々に見える宗教も根源的には一つの真理に還元され、その真理をしっかり認識すれば対立するはずがないと考えたのです。

また前田行貴著「釈尊の断食法」にはこのようの述べられています。

『断食は、人が逆境や難関に遭遇した時、エゴ(自我)を捨て、謙虚になって他人に迷惑をかけることなく、静かに大自然への全託に至る至高の行法なのです。』

普段置き去りにしてきた身体に、否応なく目を向けさせられるのが断食です。
それはまさに瞑想であり内観の極意ではないでしょうか。

長い歴史に培われた宗教的な営みには、人間の知恵や英知が凝縮されていると思うのです。

「幸せに生きるために」

それは自分自身の内にある対立をなくし、心穏やかに生きることと同義かもしれません。

過剰な演出を排し、この身ひとつで行える「断食」は現代的なセンスとも合致します。

いつの世も「修行」は幸せな人生への道しるべとして、その輝きは増すばかりです。

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