する贅沢から、しない贅沢へ

2010 11/30 (火曜日)

症状即療法

こんにちは、こはりです。

ホリスティック医学の台頭は、現在の諸相が「こうすれば、こうなる」という単純で部分的な発想では立ち行かなくなってきたことを意味しているように思います。

人は心身に不調を感じたり、病気になったりすると、これを治したいと様々な養生法や治療法を求めます。

「あの薬を飲んで病気が治った」
「あの治療法を受けて健康になった」

実際に症状が消失することもあるでしょう。

一方で、「あの人には効果があったが、この人には効かない」「一時的に改善したが、また再発した」など根本的な改善がみられず、あらゆる治療法や治療家を求めてさまよい歩くこともあるでしょう。

しかし、仮にも“ホリスティック”な方法であるならば、「こうすればこうなる」という単純な図式化は、患者にとってのみならず施術者にとっても労して功なしといった結果に終わりかねないでしょう。

ひとつの治療法にとらわれたり、特定の治療家に盲目的に依存することは、真の健康を遠ざけるもの以外の何ものでもないからです。

現代医学の補完、代替を標榜し、担いうる方法には、ホリスティックな、つまり全体的、有機的、相補的な観点で理解することを大切にする姿勢がなくてはならないでしょう。

こころ、からだ、霊性、運動、食事、環境、時間、季節、遺伝など、
意識化される、またはされない様々な要素が複雑に絡み合って存在し影響を与えているとするならば、これからの時代は「生活の中で総合的にバランスをとっていくあり方」換言すれば「生命が輝く生き方」が模索されます。

結局のところ東洋哲学においても、効果や結果を期待して行うことが、必ずしも生命を力づけ、今を輝かせるものにはならないと教えているのではないでしょうか。

「ただひたすらに」「無心に」没入したとき、いつの間にか結果が達成されているという境地に、東洋哲学が到達した極意があるように思います。

治病法や健康法においても同じことが言えるでしょう。

東洋医学には「症状即療法」という考え方があります。

症状は体が治そうとする働きそのものだということです。

例えば発熱。

外部から侵入してきたウイルスや細菌に対抗するため、免疫機構や体内酵素が十全に発揮できる体温に高めていくのです。

痛みや腫れも、患部に血液が集まってくる反応であって、細胞に修復成分や新鮮な酸素を供給する必要から行われる自然な働きといえます。

以上、西洋医学的にも納得のいく説明のつく、そうした反応は、体が持つ自然治癒力をさらに後押しし力づける働きです。

ゆえに、体に表れた症状を敵対視し、それを排除しようと努めるのは、かえって治癒を遅らせ、場合によっては不可逆的なダメージを負いかねないのは容易に理解されることでしょう。

「症状即療法」の真意が分かれば、その症状を助ける工夫を、不断に行われる生活の中でしていくことが、最も効率的で本質的であるということに気づかれるでしょう。

さらに病を学びとして、それを契機に心身の進化向上に結びつけたならば、より高次の「症状即療法」が達成されることになります。

そのためにも、病を自分の問題として受け止め、いたずらに他物に頼ることをやめることです。

西洋医学でも認めるように、治すのは自然治癒力であって、自分の力以外の何物でもないのですから、責任主体を自分に設定し、生活していくことが第一義になるでしょう。

先日、肩こりがひどく、頭痛や倦怠感もあるという方の身体に触れる機会がありました。

責任ある職に就く、働き盛りの人です。

おっしゃる通り、首肩の緊張は強く、背中の上部は亀のように盛り上がっていました。

それは肉体労働による単純な筋肉疲労といった類ではなく、神経的な緊張を表しているように思えました。

こった部分をいくらもみほぐしたところで、一時的に爽快感があっても、またすぐにコリを感じるでしょう。

それは単細胞生物のアメーバが捕食するために触手を伸ばしたまま、その形状を維持しているのに似て、責任を持って仕事に当たり、過酷な人間関係にも弱いところを見せず、時に敵対的な相手に対抗しようとする姿勢を、そのまま表し続けているいるように思えました。

つまり、気持ちがある部分に集中しとどまったままでいるということです。

往々にして、治療家は「治療」と称して、凝った部分をもみほぐすという手法がとられるが、果たしてそれが治療に値する方法でしょうか。

この場合、「心構え」が変わらない限り、「身構え」つまり肉体の状況は変わらないのではないかと思うのです。

人為的な刺激で一時的な変化があっても、また体は心を如実に映し出すでしょう。

なぜなら明確な理由あって、そこに「こだわっている」のであり、いくら他者が物理的に介在したところで、本人の意思とは無関係だからです。

ゆえに筋肉を対象として、それをただもみほぐせばよいといった単純なものではないでしょう。

もっと言えば、凝りは目の敵にするべき悪ではないということです。

こうして身構えなければ生きてゆけなかったのです。

そうやってバランスをとってこの人は生きてきた。

その人の生き様を、人となりを、物語っているに過ぎないのです。

これからもこうして生きていくのかもしれません。

「それでもその生き方を選びますか?」

症状が投げかけるメッセージがそこにあります。

こだわり、とらわれ、執着。

そうさせる何か。

症状として表れた「凝り」

その蔭に「満たされないもの」があって、せきたてられるようにして走り続け、不安を隠すように歯を食いしばり、頑張って生きてきたのではないでしょうか。

むしろ、こちらのほうが根本的な問題のように思います。

これはもはや肉体の問題を超えているでしょう。

なおも身体接触、すなわち「ふれあい」に、その治療機序を求めるならば、本人の満たされない部分を気づかせるような、むしろ力なく弱った部分に対する手当てが有効ではないでしょうか。

それでこそ、二人の人間が支えあう形で行われる治療の形態として、原初的にして本質的なあり方でしょう。

その手はこだわりや緊張で張り詰めた局所をさぐり暴き立てるような、我を押し付けるやり方では、かえって逆効果でしょう。

「治してやる」などという倣岸不遜な態度も、軽率で不誠実な自己顕示欲の表れでしかないでしょう。

一人の人間として、肌を通して心に寄り添わせていただく。

体表上の筋肉レベルでの一時的な変化を治療目的とせず、結果もそこに求めず、ただ無心に寄り添うことに、東洋医学の真理があるように思います。

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