する贅沢から、しない贅沢へ

2010 11/26 (金曜日)

富士を望んで

こんにちは、こはりです。

思い立って白隠禅師ゆかりの松蔭寺に行ってきた。

沼津の二つ先の小さな駅を降りて、歩いて10分くらいだろうか。

白隠さんと親しみを込めて呼ばれるお坊さんは、日本の臨済禅の中興の祖といわれ、仏法以外にも書画や詩文にも才能を遺憾なく発揮したとされている。

まぎれもないカリスマである。

当時、師に教えを乞うため参集した人々は数百人。

要請あって全国にも説法してまわったとされている。

志ある人々の精神的支柱として存在していた白隠さん。

片田舎ながら一大拠点として存在していた松蔭寺。

僕がそこに訪れた理由。

それは白隠さんが、日本の健康法、養生法のカリスマとしても君臨しているからだ。

当時のあらゆる医業で治せなかった自身の禅病を、主に内観法と軟酥の法で治した経験を、庶民に向けた養生法として体系化した。

今なお語り継がれるそれらの方法は、現在の医学に照らしても理に適い、また予防医学的にも、さらにその先進性を見直されていくだろう。

その白隠さんの活躍した本拠地を、一度は見てみたいという好奇心から訪れたというわけだ。

何の変哲もない小さな寺であった。

皮肉にも並び建つクリニックが目新しいビルで圧倒していた。

地元にも今や威光は薄れ、根付いていないことが見て取れた。

そこで得たインスピレーション。

「場所には意味がない」

「教えの内容こそが大切である」

「真理は受け継がれる」

「カリスマは一代限りである」

カリスマや聖人が、かつて活躍していた場所は往々にして聖域化され崇拝の対象とされる。

そして、その権威にすがり、盲目的にありがたがる人も出てくる。

まったく意味がない。

白隠さんも、きっとそれをまったく望んでいないのだろうと思う。

沼津の至近、三島には、かつて沖ヨガの本拠地があった。

最盛期は相当の活気を呈していたと推察される。

今は道場としてのかつての活動はしていないようだ。

カリスマ亡き後、言い方は悪いかもしれないが、名所旧跡としてあるだけで、その内実は当時とイコールではない。

寺はその当時の様式を残しているが、それ以上の価値はないだろう。

歴史を経た文化財としての価値はあっても、見方を変えればガラクタにもなりうる。

大事なのは物質ではなく、色褪せない教えであり、不変の真理だ。

その場で、教えを忠実に継承している人もあるだろう。

尊いと思う。

一方で、あらゆる道、流派の始祖となる人、カリスマとなる人は、決して従来の道を完全に踏襲しているわけではない。

歴史を見れば明らか、自らの才能で咀嚼、吸収し、そこにオリジナルの要素が加わり、再編または昇華させるところにカリスマたる所以がある。

つまり教えは、黙っていても資質のある人の琴線に触れ、場所を離れても、形を変えても、受け継がれるということだ。

もっと言えば、波長が同調した者だけが、その教えに触れることができるということでもある。

考えてみればあたりまえのことだ。

その土地に産まれたからといって、その影響を受けるとも限らない。

ゆえに資質をそなえ、教えに触れることが大切であり、真理を求め、それを実践することがもっと大切になる。

そして、そこから権威を離れ、自らの内から産まれ出たものに忠実であること。

「信じるな、疑うな、確かめよ」

改めて沖先生の教えが心に響いた。

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