こんにちは、こはりです。
日本における「療法としての断食」の歴史、そして昨今著しく進展する情報社会の恩恵により、断食のもつ生理的な作用、治病効果は多くの人の知れるところとなった。
食を断つことが潜在的な自然治癒力を鼓舞し、病気が好転するという一見逆説的な、つまりマイナスがプラスに作用する引き算の論理が社会の成熟に伴って認知されるようになった。
とはいえ人類の長い歴史の中で経験的に培われ、今もなお実践され続けているのも断食である。
断食のもつ可能性は肉体から精神に至るまで幅広く、そして本質的な示唆に富んでいることに、その永続性の所以があるのだろう。
断食は動物でも病めば本能的に行うものである。
一方で万物の霊長といわれ高度な文明を築いてきた人類にもまたふさわしい断食のかたちが模索されていいだろう。
生命の本質に迫り続けるヨガにおける断食に対する考え方を日本のヨガの草分け沖正弘先生は以下のように述べている。
『絶つということは無関係になるということではない。その物の真実の価値を知るためである。一度家や社会を離れてみるとよい、しみじみとそのありがたさが身にしみてくるものである。食物のありがたさも、ほんとうの栄養も、断食後に初めて知るのである。こうしてヨガでは慣れることの弊害を除去するために、ときどき断食行法を行なうのである。』
人間は良くも悪くも慣れてしまうところがある。
小言を何度も言われるとその効き目が薄れていくのと同じように、日々の惰性の食生活は食物から無駄なく栄養を摂取する積極的な機能を失わせるのだろう。
なにより、あまりにあたりまえすぎる日常のせいで、「生きている」という実感が薄れてきているとすれば、人生の幸福も感動も味わえなくなるのだろうと思う。
「今ここに生きている」という奇跡のような感動を常に抱いていけたら、人生どんなに色鮮やかになることだろう。
「生きている」ことへの慣れは、死ぬこと以上に不幸なことかもしれない。
『ヨガでは、断食、断性、断財、断家(出家)断社会(独居冥想)の行法があるのである。時々、離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい観方、受取り方が生まれてくる。物の価値、ありがた味、必要性、恩、自己への協力、自分の位置、自分の責任などをしみじみ味わうことができる。動物は断食を病気治癒の最後的手段として本能的に行っている。人間の祖先もやはり同様であったと思うが、智慧が進むに従って、精神修養にも用い始めた。断食すると、断食苦のためにいろいろな心理状態の変化が生じてくる。食無くして苦しんでいる人々の上にも自然と思い及ぶのである。物のありがたさもわかり、またその苦に耐えるために否応なしに真剣になる。苦しみに耐えうる体験によって自信を高め、意志も強固になってくる。』(沖正弘著「人間を改造するヨガ行法と哲学」)
ヨガは人間の生命としての歴史と智恵が含まれているのだと思う。
そこから学ぶべきことは多く、今この時代でいかに実践していくかを考えていくことが重要なのだろう。
人間の食生活は動物とは違って生存のためだけの食事ではない。
こと先進国に生きる我々は嗜好品もあれば、付き合いでの食事もある。
過食の傾向、それに伴う内蔵機能の消耗と排泄力低下は必至だ。
良かれ悪しかれ理想と現実に折り合いをつけながら生きる我々に、いにしえの清廉な聖人のそれと同じように適用することには無理があるだろう。
現実的にも山奥にこもって修行に明け暮れるようなことは到底無謀であるし意味のあることとも思わない。
今この時代、日本という国に生かされていることを肯定的に受け止めるとするならば、人間関係の中に生き、家庭と仕事に幸せを見出していく業を背負っているのだとも言える。
ならばこそ、必要とされるのは先人の歴史に見出される本質を踏まえながらも、現代生活との折り合いをつけるバランスの取れた方法の構築である。
そこで発想されるのが「アトラクションとしての断食」である。
突飛な表現で軽薄に聞こえるかもしれないが、喜怒哀楽を含めた感動体験の提供に尽きる。
断食から復食への経過は、一度死んでからまた生き返るような強烈な生命の躍動感、人生の縮図、浮き沈みを一気に体感するようなものだ。
「生活習慣の改善」には、断食のいざなう「非日常体験」はきわめて強烈なインパクトとして作用する。
それは言い換えれば、動物的、本能的断食から人間的、全人的な断食へのシフトとも言える。
物質にあふれた現代において人生の転機となりうる「インパクトのある出来事」は物質を得ることでは得られにくくなってきている。
その反面、物質を手放すことによる衝撃を受け止める心身の感度は増してきている時代とも言える。
ここやすらぎの里では大沢先生の理念による「生活習慣の改善」のための断食が日々実践されている。
それは言わずもがな「方便としての断食」である。
なにがなんでも断食で病気を治すという偏狭な頑なさがない。
それは現代人の疾病構造や体質の変化も考慮に入れられているが、なによりそれはきわめて本質的で現代的なセンスとバランス感覚に裏打ちされたものであることがわかってくる。
単発の一時的な断食にすがるよりも、日々積み重ねられる生活を主体的に見直すことの方がどれだけ有益で持続可能であるかと。
大沢先生は「やすらぎの里を日本いや世界一の断食施設にする」と言って憚らない。
僕は、その思い、志に接し、すでに「断食の本質に迫るオーソリティ、やすらぎの里にあり」とひそかに思っている次第である。