デトックス博士の思い
はじめまして、デトックス博士です。
博士とついているのが、なんともおこがましい限りですが、
その名にふさわしいように知識と実践を積み重ねて参りたいと思っています。
まずは私の考えるデトックス。
結論を先に申し上げれば、デトックスの極意は「手放すこと」にあると考えます。
私たちの生きる現代社会は高度な文明と引き換えに、たくさんの化学物質が身の回りにあふれることになりました。
農薬、食品添加物、合成洗剤、医薬品など、それなしでは生活が考えられないほど身近なものとなっています。
逆に身近なものになりすぎて、それが毒にもなりうるということを忘れがちです。
食品汚染、水質汚染、大気汚染といえば大事に聞こえますが、
それがごく身近にも起きていることに気づくことが重要ではないでしょうか。
昨今デトックスの必要性が叫ばれるのも、こうした化学物質の氾濫という外発的な要因と、
それに伴って、かつてないほど毒を溜め込まざるを得なくなった人間の体が、
本来の処理能力を超え排泄しきれず機能低下を起こしているという内発的な実感によるものではないでしょうか。
当面の健康問題を考えても、これ以上、毒をためないことが大切になります。
そのためにも
「毒を取り込まないこと」
「毒を排泄すること」
を念頭に生活する必要があるでしょう。
もっとも、こうした化学物質を生み出したのは人間であって、経済効率や利便性を追求したところの産物です。
人間の「もっともっと」という欲求には際限がありません。
何でもかんでも溜め込んでいく、そうした性質は人間の欲望に由来する生得的なものと言えるでしょう。
だからこそ、デトックスは最終的に「自己の変革」「価値観の大転換」を促す可能性を孕んでいるということです。
反面、デトックスにまつわる小手先のテクニックは世間に出回っています。
商業ベースに乗って花盛りです。
お金さえあればデトックスできるということでしょうか。
物質文明の肯定の上に、持続可能なデトックスは実現されるのでしょうか。
私は、本当のデトックス、本当の心のやすらぎ、を得たいと思うのであれば、まず「手放すこと」ではないかと考えるのです。
往々にしてデトックスしたいという願望の裏に「キレイになりたい」「ダイエットしたい」
といった外見的な動機が含まれていることは大いにあることです。
それは先ほど述べてきた「もっともっと」という欲求と切り離せないものです。
不老長寿を得られて満たされるそれらの欲望は、老いや死を直視することができません。
直視しないどころか、老いさらばえた肉体を引きずって歩くことに、嫌悪感すら抱くわけです。
そうした精神的な毒を抱えたまま、ストレスフルに生きていくことが、
果たして望む「美しさ」を手に入れることにつながるでしょうか。
「もっともっと」で生きるのと、「手放して」生きるのと、どちらが生理的にも若さを保ちうるか考えてみればわかることです。
健康志向きわまって有機食品、無添加食品を買いあさって悦に入るのも同じことです。
何のためにデトックスするのか、健康になったらどうするのか、どうのように生きていきたいのか、
より根源的な視点に立って、改めて人生観や生命観を見つめなおす必要があるのではないでしょうか。
情報が氾濫し煽られるままに自分一人が健康で幸せになる利己的なあり方に陥りがちです。
しかし、少し立ち止まって、今生きていることを直観したとき、この地球環境に生かされ、
共同体の連帯の上に個人の健康と幸せがあるということに気がつくのです。
即物的にして利己的な欲望を手放して、さっぱりと生きてみる。
デトックスの極意はそこにあります。
最初は失うことに対する反発や抵抗に遭うこともあるでしょう。
それでも、思い切って手放してみる。
必ず心が後からついてきます。
文明生活の恩恵を享受する私たちにとって、手放すことは原始的な生活へ回帰することとイコールのようで、
躊躇してしまうのも理解できるものです。
退化と同義の単なる復古主義に終わらないためにも、人類の経験と知恵はここにきて生かされるべきでしょう。
自然の循環の中で持続可能なあり方を見出していくということです。
より人類の進化形としての生き方、つまりそれは内なる自然性の回復と、適応力の向上というパラダイムシフトです。
最近のデフレスパイラルは、まさしく毒を溜め込む悪循環です。
コスト削減の成果として産み出された安価な商品をこぞって手にする私たちは、
大量生産の工業製品や加工食品に含まれる化学物質を礼賛し、自然に沿った本物を駆逐しているのと同じことです。
デトックスは一日にして成らず。
「デトックス」をキーワードにして、生き方がより向上して、社会にも地球にもやさしい、
そんな時代を創造していきたいものです。
デトックス再考
「デトックス」西洋的な概念としてのそれは、外部から入ってくるネガティブなもの、
例えば毒素が体内に蓄積することを良しとせず、外部に排出していくプロセスを言います。
現在のこの自分の体は悪いものに汚染されているとする身体観です。
そこには必然的に自己嫌悪が潜在します。
一方で伝統的な東洋の身体観には虚実理論というものがあります。
俗に言う「コリ」は、ある一部分に気(エネルギー)が集中することにより起こると考えます。
何か行動を起こそうとするとき、その方向に向けて気持ちが向かいます。
これ自体は当然のことで病的状態ではありません。
しかし、この集まった気持ちが、そこにあり続けることに問題があるわけです。
心の執着によって、その気持ちはある部分に偏り、滞り、充満し、固定化してきます。
これがコリです。心身ともに凝り固まることです。
東洋医学的な理想状態とは、とらわれを手放して、フレキシブルに循環していくことです。
どこか一部に偏ることなく全身にくまなく行き渡る状態です。
心身一如、心と体は分かちがたく結びついているとする東洋医学では、肉体的な治療に終始せず、
おのずと究極的には心のありよう、心身の解脱、さとりの方向が示されていくわけです。
前述の通り西洋的なデトックスには、外部に悪い物が想定されます。
重金属と言ったり、化学物質と言ったりします。
それが実際どれほど人体に影響するかは医学界でも諸説様々ですが、通底するスタンスとしては、
外部に仮想敵をつくることで、モチベーションが強化され方法が明確化します。
おのずと意図的に排泄していくことになります。
一方で東洋的な観点では、絶対的な悪もなければ、絶対的な善もなく、一時的な状態がそこにあるだけです。
そしてエネルギーの善用によって、副次的にデトックスが起こるのです。
自然体、つまり良いものを完全に吸収し、悪いものはすべて出し切れる身体を作り上げることに専心することによります。
つまり意図して排泄に特化しなくても、体に備わった力が顕在化すれば必要なことが行われるわけです。
もっと言えば「清濁併せ呑む」のことわざ通り、それが毒になるか薬になるか、短絡的、人為的
に決められるものではありません。
商業的に規定することはあっても、それは商業戦略でしかありません。
いまだ未知なる人間の体という関数が考慮されずに、毒だと決め付けることは生命に敬意を持つほどに
早計と言わざるを得ないでしょう。
毒を薬に変えてしまう可能性すら生命はもっていてもいいはずです。
振り返ってみても、不幸としか言いようのなかった過去の出来事が、人生の糧になっていることが往々にしてあるものです。
同様に無菌状態であることが人体の抵抗力を弱めてしまうということに想像力が働いていいわけです。
いわんや生命に全幅の信頼を置く、これが東洋的な身体観だと考えます。
また東洋的な立場で違和感を抱くのは、出せば済んでしまうのかということと、出したものはどうなるのかということです。
不摂生をしても、出してしまえばそれで完結してしまい、自己を省みる機会を得られないこともあるでしょう。
つまり免罪符的な発想です。
安易な免罪符発行は、結局また同じ過ちを繰り返すことにつながるでしょう。
一時しのぎでしかなく、根本的な解決をみません。
また、けがらわしい悪とみなしたものを外部に排出していくことに背徳感がありはしないかということです。
言うならば「産業廃棄物」の行く末を案じることができるでしょうか。
生態系をつぶさに観察すれば、食物連鎖で共生しています。
排泄物も微生物の栄養となり、植物を育みます。
人類が地球上に生きていく上で享受した恩恵を返すことは、生命体として最低限のルールです。
ところが、自分さえ良ければ汚物を排出して他者をまたは環境を汚してもいいという発想と容易に結びつくデトックス概念は、西洋近代的な個人主義に由来しているとみることもできますが、持続可能性を求めていけば、
個人とそれを取り巻く環境をも包含した視座で個人の健康も論じていかなければならないでしょう。
善と悪の二元論はとてもわかりやすく、訴求力があります。
具体的な方法が示しやすく、精力を傾注しやすい特徴があります。
一方で、自分の内部に重きを置くことで、方法も結果も目に見えづらくなります。
しかし、大切なものは目に見えないものが多いということも経験から知るところです。
持続可能な本当の健康観へ。
自然と調和、共生してきた日本人の感性はここにきて発揮されるべきでしょう。
現代に息づくミソギ願望
葬式から帰ってくると塩をまく。
宗教心が薄れつつある昨今でも見かける光景です。
もともと仏教においては死をケガレたものとみなしていないため、元来そうした風習はありません。
しかし、日本に葬式仏教が定着していく過程で土着の神道的精神が混成してきたのでしょう。
そこには日本人に脈々と息づく禊(ミソギ)祓(ハラエ)観念を看取できます。
宗教的な用語や観念を持ち出すまでもなく、もっと単純で素朴な感情として息づいていると言ってもいいかもしれません。
それは昨今流行する「デトックス」という言葉がここまで深く浸透した土壌をなすものでしょう。
子どもから手が離れた親たちが、老後こぞってお遍路にでかけたりするのも、若い人がこぞってパワースポットや、
サンクチュアリをもてはやすのも、社会に生きている中でまみれた欲や執着をきれいにそぎ落とし、
心機一転、すがすがしくこざっぱり生きたいという願望によるものではないでしょうか。
禊でいう「穢れ(けがれ)」とは、単に「汚れ」だけではなく、
古来は、生気が枯れること=「気涸れ(けがれ)」を意味していました。
気が枯れれば生命力が衰えてくる。
そうならないために生気に満ちた自然と一体化し、気を充ちさせ再生させるのです。
特に水に浄化の力を見出し、川や海で心身のケガレを洗い流す行法が一般的です。
インドの沐浴とも通じるものがあります。
神話にさかのぼれば、イザナギノミコトが黄泉の国から戻ってきた時に、
その穢れを、海に入り祓い流されたことに禊の由来とされています。
神社参拝の前に手水舎で手や口をすすぐ風習はその略式と見られ、
力士が土俵に塩をまくのも、家や店の玄関先に盛り塩をするのも、海のエッセンスである塩の力によっているのです。
いずれにしろ「水に流す」そんな日本の共同体の寛容さが、和をもって尊しとなす高い精神性を保障していたように思います。
昨今の自殺者の増加はそんな古き良き日本の寛容さが失われつつある兆候でしょうか。
「デトックス」願望には、単なる生理的な毒素排出を超えて、そんな国民性、精神性に根ざした、
禊=身体の穢れの浄化、祓=精神の穢れの浄化の願望がありはしないでしょうか。
先が見えない時代だからこそ、心身を統一した本当のやすらぎが求められています。