●デトックス以前
人間には宿命的ともいえる「ゆがみ」が二つあると考えます。
「前屈」と「内臓下垂」です。
二足歩行を始めた人類の祖先は、重力に抗うことを選びました。
人間にとって成長とは天に向かって伸びることです。
両手を大地から離すことで道具の利用や頭脳の発達が進み、
頭が高い位置にくることで広い視野を得られ、
人間を人間足らしめたのが、この姿勢というわけです。
力強く成長する段階では人間として理想的な姿勢を維持できても、
加齢とともに背筋が丸くなっていきます。
前にかがんでいく歪み、典型的なお年寄りの姿です。
胸がせばまると呼吸が浅くなったり、内臓を圧迫することになり、
心身の不調につながってくるというわけです。
もう一つ重力のある地球に生きる上で宿命的なゆがみとして「内臓下垂」があります。
四足の姿勢では背骨に内臓がぶら下がるようにしています。
しかし、二足で立ち上がったとき、重力は背骨と水平に働き、
ともすれば内臓は下に垂れ下がっていきます。
「下腹部のポッコリ」がそれです。
最下部の骨盤内にある直腸や子宮、卵巣が圧迫されやすく、
主に腸を圧迫すれば便秘、子宮や卵巣を圧迫すれば
位置異常や循環不良となり、婦人科系疾患を招きやすくなります。
いずれも運動不足による筋肉の低下、
デスクワークなど同じ姿勢でいることによる硬直化、
ストレスや不規則な生活による自律神経の失調、
甘い物の取りすぎによる内臓の弛緩、無力化などがその原因になります。
よって外は腰腹部の筋力強化をして内臓の強化につとめ、
内は食養で内臓の正常化をはかることが大切になるでしょう。
「デトックス」というと何か特別な理論やテクニックを期待されるかもしれませんが、
デトックス以前の人間としての基本をおさえずして、
いずれも枝葉末節の一時的な対症療法に過ぎなくなります
そうした大局的な理解がなければ、「デトックス」のつもりで体の歪みをさらに増強することにつながりかねず、
健康法が不健康法になりかねないことを知っておくべきでしょう。
他物による侵襲を伴った療法や各種健康法は、
物理的、化学的刺激を用いて心身に動揺を与えるという点で、
症状の一時的な変化を期待できますが、本来の健康のあり方は
自らに内在する自然な力で健康になっていくことでしょう。
そのためにも、自らの心身に無理解、無頓着ではいられないということです。
他物への依存心を手放し、自らの内部に目を向け観察すること。
姿勢が、呼吸が、今どうなっているか。
つぶさに感じていく中で、姿勢や呼吸が、
身体や精神状態をつくる要素になっていることを感じられるでしょう。
ヨガなどの古代の英知の要点は、まさにそこにあるのです。
●愛と平和の新基軸
毎日、口にする食べ物の重要性は何度唱えても言いすぎにはならないでしょう。
現代は国が富み身のまわりに大量の食べ物があふれるようになりました。
しかし、たくさんの食べものに囲まれながらも、
そのうち本当に安全で安心して食べられる食べ物はどのくらいあるでしょうか。
世間に出回る加工食品には大量生産、低コストの過程で、長期保存に耐えられるように保存料、
色味を良くするために着色料、風味を良くするために
化学調味料などの化学物質が添加されていることはよく知られています。
食品の裏側の表示を見れば、食品に似つかわしくない
カタカナで書かれた化学物質を目にすることができるでしょう。
そもそも人の手によって化学的に合成された物質というのは、
本来自然界に存在し得ないものがほとんどです。
つまり、高度に精製されていたり、濃縮されたものを体内に取り入れたとき、
人類が始まって以来、
触れてこなかったものに触れるということです。
そこでどんな害があるか。
添加物が使われ始めてたかだか数十年。
まだつかみきれていないのが現状ではないでしょうか。
もしくは、もうすでに何らかの形で害が出ているかもしれません。
不調と感じているものの原因がそれかもしれない。
そうした安全とは言い切れないものを口にするリスクがあることを、
ほとんどの庶民には知らされていません。
もうひとつ忘れてはならないのは野菜です。
農薬と肥料の問題です。
端的な例を言えば、ほうれん草のビタミンCが1950年のものと
現在のものとを比較したとき5分の1に減っている
というデータがあります。
その他の野菜についても軒並み栄養価が下がっています。
これはどういうことかというと、野菜自体の力が衰えているということです。
そして昔と今で栽培方法で何が違うかと言えば、農薬であり肥料なのです。
土の中には何億という数え切れないほどの微生物がひしめき合っており、
調和的にバランスをとって共生しています。
その中で育つ野菜は、自然な土の恵みを得て小ぶりながらも引き締まった形をしています。
味も濃厚で甘みたっぷりです。
一方で、農薬、肥料まみれの野菜は、ぼってりと水っぽい印象があります。
味もどこかとげとげしく、子どもの野菜嫌いも味覚が純粋なだけにうなずけるものがあります。
肥料を投入するのは早く大きく育てるためでしょう。
農薬は害虫を防ぐためでしょう。
一見、近代的で合理的な方法に見えますが、肥料を投入することで
害虫が発生していると見る向きがあります。
考えてみれば、自然な状態で、バランスが取れていたものに対して、
突出した栄養分を含む肥料を入れれば、
そのバランス状態に過剰という不調和な要因が生まれるわけです。
微生物レベルでも、ある微生物はその栄養分によって盛んに増殖するものも出るでしょう。
一方で抑制されるものも出てくるでしょう。
これは害虫にも言えることです。
何かが異常に増えたり減ったりしてしまう。
特に害虫が増えることを嫌えば、それを殺す農薬を散布することは当然でしょう。
ある特定の生物を殺す農薬の投入。
またもやバランスを乱す要因の登場です。
ますます土壌は自然状態から乖離していきます。
もはや薬なしでは成り立たなくなってくるわけです。
そこには一切の生物の繁殖を許さない無機的な土壌が出来上がってくるのも当然です。
そこで育てられた野菜が生命力を失っても、これまた当然と言えないでしょうか。
それでは、有機栽培に希望があるでしょうか。
有機物、つまり化学的に合成されていない自然由来のものであれば、
土壌のバランスを崩さないであろうという発想ですが、
これもまた一筋縄ではいかないところがあります。
有機物と言えども栄養に富んだ肥料です。
害虫が発生することもあるようです。
またそれ自体の質も問題視されています。
家畜の糞尿などを発酵させた厩肥。
この家畜の動物が口にするエサの質まで把握しなければなりません。
現代の畜産は狭いゲージの中で家畜を育てるために病気にかかりやすく、
それを防ぐために大量の抗生物質の含まれたエサが与えられるのです。
このエサを食べた家畜から排泄される糞尿には、そうした薬物が含まれています。
当然でしょう。
家畜にとっては不本意に与えられた薬品です。
健全な生理機構によって排泄されて当然です。
抗生物質を大量に含んだ残滓を肥料にして育った野菜。
その野菜の安全性を誰が保障するでしょうか。
家畜に抗生物質を与えなければならないのは、
管理しやすい限られた敷地内でたくさん飼うためではないでしょうか。
そこにあるのは低コストで大量に生産するという「経済効率」です。
野菜に農薬や化学合成肥料を使うのも、見栄えの良い野菜を
安定して大量に生産するための「経済効率」です。
生産者ばかり責められないでしょう。
安いものを求める消費行動がそれを支えています。
こうした目先の「経済効率」にとらわれた生産と消費が続けば、近い将来、
本当に安心して食べられるものがなくなってしまうかもしれません。
本当に安全で安心な食品を手に入れるためには、やはり各人の「価値観の転換」
つまり「自己変革」が必須になるでしょう。
ひいては「社会変革」へとつながっていくものです。
以前にも申し上げましたが、本当のデットクスというのは
「人間としての自然」を求めて生活を再構築していくことではないでしょうか。
つまり、巷で流布されるインスタント的な「毒を排泄してしまえ」
といった超個人的な志向をはるかに超えるものです。
もっと深いところに真のデトックスがあります。
デトックスは本質的に即物的な利己主義と相性が悪いものです。
生命を支配しうるモノとして扱う人間の傲慢が、弊害という形で己に返ってきている今。
自然を鏡として、自然に学び、自然と調和して生きることが求められているのではないでしょうか。
デトックスは「愛と平和の新機軸」になる。
私はそう確信しています。
●メンタルデトックス
現代は「うつの時代」であると作家の五木寛之は述べていますが、
うつを含む気分障害の総患者数は2008年に104万人、
過去9年間で2、4倍の増加と言われています。
未受診者も含めると一説には1000万人、
10人に1人が何かしら精神に失調をきたしているというのです。
自殺者も増加の一途をたどり2009年には3万2845人、
12年連続で3万人を超えるという驚くべき数字です。
自殺の動機は上位から「健康問題」「経済、生活問題」「生活苦」「失業」「事業不振」が続きます。
複雑化した現代社会に生きる我々にとって、
決して目を背けることのできない事実です。
「心の問題」といかに向き合っていくか。
目に見えるものだけを追い求め繁栄を極めた、そのゆり戻しが
目に見えない人々の心に映し出されているのかもしれません。
一般的にうつなどの気分障害において薬物による治療が行われます。
セロトニンなどの脳内物質に着目し、改善を図ろうとするものです。
たしかに変調をきたした脳内を調整するのですから、
なんらかの症状的な変化が生じてもおかしくありません。
しかし、その脳内の変調がなぜ起こったのか、
その原因に対するまなざしがそこに育まれるでしょうか。
自覚される症状は、いわば現在の生活に対する警鐘ではないでしょうか。
これを無視し、隠蔽することで、水面下で原因が取り除かれず
大病の芽が醸成されているかもしれないのです。
ある日突然、脳内だけ変調をきたすこともあるでしょう。
しかし、さまざまな慢性病をみても、必ずそこに到るまでのプロセスを必ず踏んでいるものです。
しかも局所だけの問題ではなく、全身のひずみが一番弱い部分に顕在化してくるのです。
「心の問題」も例外ではなく“結果として”脳内に変調をきたしたと考えれば、
薬物における脳内へのアプローチは対症療法にすぎないと言えます。
もっとも薬物療法が奏功し、または薬物療法こそ最良の疾患があることもありますのでその限りではありません。
しかし、器質的でない機能的な疾患の大半が、何かしらの後天的な原因があり
発症したと見られるのではないかと思うのです。
その証左として、年々増加する患者数があります。
人間の器質的なものが、ここ数年で激変することは常識的に考えられないからです。
私が結局何を言いたいかというと、
薬物が唯一の治療法ではなく、他にもやり方があること。
他物に頼るだけでなく、自分の力で主体的にアプローチできること。
この二つなのです。
そして、心と身体をつなぎとめるところに、
何かしら異変が起きているのではないかと考えるのです。
「心が体を支配する」
従来の西洋科学はどちらかといえば心を上位において考えるところがあります。
セリエのストレス学説がその例で、心の変化が体に影響を及ぼすという考え方です。
現代医学においては、自律神経系、内分泌系、免疫系は
心と体をつなぐものとして注目されるようになりました。
一方で東洋医学やヨガなどの古代の英知は
「体が心を支える」
と考えています。
例えば、体にコリがあり、痛みやしびれを伴っていて、
イライラしない人がいるでしょうか。
そうした肉体に由来する「居心地の悪さ」が、心に影響を与えることもあるのです。
外側からのストレッサーと内側からのストレッサーは不可分で、
どちらが先かと決めるのも難しいものです。
「心の問題」に対して、直接心の領域に踏み込んでいくのが、
従来の精神療法であるならば、「心の問題」に対して、
身体の領域からアプローチしていくのが東洋的英知といえましょう。
まったく別と思われる心と身体が、有機的なつながりをなしていることは、
いまや東西を越えた共通の理解となっています。
同じ刺激を与えて、病気になる人とならない人がいます。
感受性、つまり受け取り方の違いです。
現代人に関して言えば主に人間関係や仕事に関する悩みがほとんどではないでしょうか。
受け取り方を変える
ある出来事を良く解釈するのも、悪く解釈するのも、他の誰でもない自分です。
そして、物事の豊かな解釈に際して必要なのは、
幅広く複眼的な思考と、全体を俯瞰してみることのできる視点です。
その反対は、単一の思考と狭小な視野です。
常に、ネガティブな考えにとらわれ、被害者意識にさいなまれて、
不幸な出来事しか見つけられない、不幸体質です。
誰もがそんな体質を望んでいないでしょう。
いかにして、局所にとらわれず、全体的、総合的な視点を獲得できるでしょうか。
東洋的な身体感覚として「丹田」という概念があります。
解剖学的に存在が確認されるものではありません。
第三腰椎とへそと肛門を結ぶ三角形の中心と一般的には説明されますが、
心と体をつなぐ中心点と理解されます。
ヨガでなぜ、体を動かし整えていくかといえば、生理的な土台の上に心理的、
精神的な安定が得られると考えているからです。
そして、その動作で重要視されるのが「丹田」なのです。
その身体意識を明確にしていく修練を積むことが第一義となります。
丹田が養われてくると「心と体の余裕」が生まれてきます。
中心の一点に安定的に集約された力は、その他の余分な緊張やこわばりを解いていきます。
腹からの深い呼吸は、精神の沈静化をもたらしていきます。
さらに武術の世界を引き合いに出せば、敵の攻撃を素早くかわし対応できる動きが求められます。
そのためにも、その場に居たままでいることをとても嫌うのです。
これを「居着く」と言います。
例えば右足に体重を移して、次に左足に体重を移そうとするのですが、
右足の方に体重がべったりと乗ったまま、
身動きが取れない状態です。
右側から敵の刀が振りおろされたら、よけることができず切り殺されてしまうでしょう。
武術の世界では「居着くこと」は致命的なことなのです。
こうして血なまぐさい闘争術として発展した武術も、現代では「武道」に昇華しました。
刀が四方八方から降りかかってくる時代ではもはやありません。
殺生のため闘争術から、人を活かす道へ。
武道を現代の生活に応用するならば、とりもなおさず「居着かない動き」を求めていくことです。
つまり、一方に偏らず、フレキシブルに変化できることです。
執着やとらわれを手放す。
その練習を身をもって行うのが武道なのです。
不安や恐怖心などの負の感情をいつまでもひきづらず、今この瞬間を生きることに専念する。
こうした瞑想的な境地、「動禅」を体現することに、
武道をはじめ、ヨガや東洋的な身体操法の要諦があるように思います。
僕自身、武道の世界に身をおいて、稽古を通して練られた「丹田」と「居着かないこと」
現在の生活に活かされていると実感しています。
先人の培った心と体を包括する智恵というものを、戦後、科学礼賛、物質主義、
つまり「目に見えるもの信仰」の中で、
見失ってしまったように思います。
「心と体をつなぐもの」
その価値をもう一度再認識し、身につけていきたいものです。