セラピストnaoさんが、高原館滞在の感想をブログにアップしてくださいました。
~熊谷深谷・離れのおうちサロンでリンパケア♪ココロ&カラダに優しい時間を~
お話しているだけでも、こちらが癒されるような、優しさあふれるお人柄でした。
ご自身のサロンでは、フーレセラピーやよもぎ蒸しなど、
女性にとって理想的な癒しがそろっています。
naoさん、ありがとうございました!
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女性にとって理想的な癒しがそろっています。
naoさん、ありがとうございました!
東洋的なるものは「自然との調和」を志向しているのだと思います。
自然との不調和が病気の原因であるとするならば、自然の摂理、生命の法則にそった生活をすることが本質となるでしょう。
にもかかわらず、健康法や治療法において、東洋的と標榜するものでさえ、その本質からはずれ、浅薄な知識をこねくりまわし、ゴテゴテと脚色し、技巧を凝らしたものが多いように思います。
「とらわれ」や「はからい」をますます生み出すばかりで、それが病気の原因であることに気がついていないかのようです。
人類の意識、つまり大脳の発達は一方で文明の発展をもたらしましたが、野生動物にはない多くの慢性病を作り出したということも事実でしょう。
「考えることをやめてみる」というのは瞑想そのものですが、健康法も「瞑想的」に行ってこそ、人間にふさわしいものとなるのでしょう。
断食は「食べることをやめてみる」という非日常的な体験から、原初的な感覚をよみがえらせる営みです。
いわば視床下部、視床、脳幹などの、原始脳を賦活させることで、相対的に複雑な思考を織り成す大脳新皮質を抑制します。
これは、生命維持のための優先順位が再定義されるということでもあり、「自然に生かされている生命体」に立ち返ることで、人間の業を改めて見つめなおす機会にもなるのです。
何を捨て、何を取るか。
あまりにも余分なものを抱え込みすぎた現代人が行き着くのが、断食というのも必然なのかもしれません。
病気の原因として、肉体的な生活上の原因というのは厳然としてあります。
生活習慣改善が奏功する例ですが、ある特定の健康食品をとることでも、肉体への刺激となって、見かけ上の症状が動揺、変化するように見えます。
一時的な症状の消失をもって治癒とするならば、「○○を食べれば病気は治る」式のロジックは成立するのですが、病気の原因は往々にして、肉体と精神を横断した複合的なもので、心の使い方、誤った想念のもたらす病気であったならば、肉体への刺激のよってもたらされた一時的な変化としての肉体症状の消失があったとしても、完治ないし、病気を克服したことにはならないでしょう。
世の中には健康法や治療法はあまたありますが、それが心のあり方にまで及ぶものは少ないように思います。
病気の原因を肉体のみに還元し単純化することで編み出される、症状を変化させるためだけの刺激療法は、人々の唯物的な思考を煽りこそすれ、最も重要な己の心の領域に分け入る余地を与えません。
反対に心を強調する方法論には、あなたの心がこのように悪いから病気になったと決めてかかるものもあります。
唱導する側も、それに納得する側も、所詮、強者の理論に過ぎないと思うのです。
それは生まれながらの不具を無視あるいは軽視した薄情さをそこに感じるからです。
心の問題はあったとしても、それを自分や他人を責め裁く材料にしてはならないでしょう。
「病は気から」の真意は、良きにつけ悪しきにつけ、心がとらわれること、不安や焦りを覚えるくらいなら、詳細な分析はしないで、いつも朗らかに柔和でいた方がずっと良いと思うのです。
その点、断食の実践は、理屈抜きで感謝の閾値を下げるものです。
不安や焦りなどのネガティブな感情が、感謝の一念に置き換われば、見える世界が全く別物となることでしょう。
それに伴って、想念、行為すべてが改変され、病気が治るかもしれません。
たとえ治らなくても、その病気にすら感謝できる心境になりうる断食の真価を、日々現場に立ち会っている者として、あえて申し上げていきたいと思います。