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2009 6/4 (木曜日)

生きとし生けるものが幸せでありますように

こんにちは、こはりです。

捨て猫があった。

人の生活する敷地内であったため処分が検討されていた。

「かわいそう」という感情が生まれ、「飼う」「飼わない」の選択を迫られる。
住居の事情や仕事の状況で「飼えない」ことが明確になった場合、「里親を探す」という思考に派生していく。

結果、一時的に預かることを余儀なくされるわけだが、その役目を誰かが担うことになる。

その時間的猶予をもって里親を探す。

同時に周囲からいろいろな反応がある。

「飼いたいのは山々なんだけど飼えない」「やっかいな問題を持ち込んでくれた」「生命は平等だ、ネコだけを特別視するのはいかがなものか」「預かること自体無責任な行動だ」

どれもあまりに人間的な「感情」に任せられた言動なのだと思う。

「かわいそう」という感情から出発した一連の行動は、周囲の感情的な反応を喚起し、自他の業の深さ、醜さを直視せざるを得なくなる。

ブッダは「悟る」ということは、「一瞬一瞬の無常に完全に気づいている状態」だと言った。

たとえば人に殴られた時、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことで、そこに痛みが生まれても、心は痛みを感じて「あっ、痛み」というだけで終わりということになる。
「私は痛い」「私はぶたれた」という発想が無意識にもない境地。

こと生命に対しては、感情を出したら際限がない。

ゴキブリは平気で蔑み殺しておいて、かわいらしいと自分が感じる哺乳類を偏愛したり。
感情に傾いた人に対して、感情的に非難し判断を下したり。

どのような感情が生まれるかは、生まれ育った環境や文化、マスコミから流れてくる情報などの影響を受ける。
当然、ものを認識する能力や善悪の判断も、人によって異なってくる。

何が正しくて、何が悪いのか、判断をすることから「苦しみ」「怒り」「争い」が生まれてくる。

捨て猫に遭遇して、どのような対処をすればよかったのか。

『すべての生命にはそれぞれ悩み、苦しみがあって、それは対価です。誰の悩みが特に重要ということはありません。その苦しみを互いにぶつけ合ってしまったら、どちらも「私が正しい」というだけで、折り合いのつけようがないので、どちらも生きていられなくなります。「私の悩みは私の悩み、向こうの悩みは向こうの悩みで」というふうに、平等の気持ちを持つようになると、自我はどんどん消えて、怒ることもできなくなります。』A・スマナサーラ

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