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2010 4/29 (木曜日)

「わからない」生き方

こんにちは、こはりです。

「わかった、わかった」とよく人は言います。

「わかる」ことは良いことだ、誇らしいことだと思っています。

漢字で書けば「分かる」「解かる」「判る」です。
いずれも、その物事を“分けて”分解して、細分化していくことを表しています。
それによって、ある部分はくっきりと見ることができるでしょう。
しかし、それがすべてを、または真意をつかんでいるわけでないということに気づいておく必要があるのではないでしょうか。
つまり「わかった」=「答えを得た」ということでは必ずしもないということです。

例えば、人間の体の場合、解剖して体を切り開き心臓や肝臓などの臓器を取り出し、さらに切り刻んで分解し、顕微鏡レベルの細部を調べていったとしても、それが「いのち」の真意を把握できたとは限らないということです。

「わかることはいいことだ」
「わかって当然だ」

もっともだと思っていた、そうした近代的な思考が、必然的に「わからない」自分を暗黙のうちに否定し、他者を否定し、周囲に広がる世界や物事、ひいては人生をも否定する価値観に結びつかないとも限らないわけです。

現代社会にはびこる「生きづらさ」の淵源が、もしかしたらそこにあるかもしれません。

「わからない」と素直に言える人こそが、本当の意味で教養のある賢い人なのだと思います。

目新しいことではなく「わからない」「分けない」生き方こそ、東洋の叡智、全体的、ホリスティックな価値観ではないでしょうか。

かの有名な武術家、宮本武蔵は「見」の目ではなく「観」の目で見ることを重要視しました。

一点に目を凝らさず、全体をとらえるあり方。

意識的に「見る」と、自分では見えているように思うのですが、実際のところ、部分にとらわれるあまり、大部分が見えていないものです。

カメラでも、ある部分にピントを合わせると、そのほかの部分がボヤけてしまいます。

これは武術の世界では命取りです。

現代を生きる我々にとっても、「いくさ」ともいえる人生の局面において、より全体的な「観」の視点を得ることは大切なことではないでしょうか。
一点にこだわれば、偏り固定化し膠着し凝り固まってきます。体も心もです。

広く柔軟で多角的な視点に立てば、難局をチャンスに変えることだって十分にできるはずです。

現在、病気を抱えている方もいると思います。

「健康」と「病気」をふたつに分けてしまったら、病気であることに心がとらわれてしまったら、それはただの不幸でしかなく、苦しくネガティブな出来事以外の何物でもなくなってしまいます。

しかし「いのち」のありようを真摯に、そして「観」の目で眺めたとき、白か黒かという二元論を超えて、グレーも含めたその中でゆらいでいるものが「いのち」そのものではないでしょうか。

つまり「健康」と「病気」というものが、それぞれ単独で存在しているわけではなく、グラデーションとして存在して、両者があってバランスをとっている存在ともいえます。

今、苦痛でしかない症状も、大きな「ゆらぎ」の中でとらえれば、なんらかの原因で偏り、ゆがんだバランスを修正しようとする「いのち」の自然な働きととらえることができます。

「風邪をひいた」
「痛くて動かせない」

その時は動かさず休んだほうがいいわけです。

「体を動かすと気持ちいい」

それなら、どんどん動かしていけばいいわけです。

それだけのことです。

「この病気をなんとしてでも治したい」「症状を取り除きたい」「悪いものを取り除きたい」

これらは「いのち」の視点からすれば、とても狭く短絡的で、必要なゆらぎを無理やり止めてしまうことになりかねません。

また西洋医学的に「○○病」と診断されたからといって、わかったつもりになってはいけないということでもあります。

「ガン」と診断されると、

「もうだめだ」「治らない」「死んでしまう」

と思うのが一般的でしょう。

壮絶な闘病生活の末に死んでいくドキュメンタリーやドラマ、小説などのイメージが知らず知らずのうちに植えつけられています。
また「わかっている」と思っている医師が、「治らない病気」と「わかっている」ことが問題です。

そんな医師に宣告され対話していれば、「治らない病気」という固定観念が植えつけられ、本当に治らなくなってしまうかもしれません。

ガンを宣告されて、みるみる悲観的になって衰弱していく人もいます。

「わかった」ことによる弊害です。

「ガン」と診断されても、「分ければ」ガンですが、「分けなければ」より建設的に自分の「いのち」と向き合えるはずです。

今の自分のからだが決してみじめなものでもなく、弱々しいものでもなく、排他すべきものでもなく、以前と変わらない「いのち」がそこにあるだけです。

その声に耳を傾ければ、おのずとこれから何をすべきか、いかにして生きるべきか、答えが出てくるはずです。

そうして前を向いて歩ければ、生きる希望や、いきいきとしたいのちが感じられてきます。

もっと言えば、人生を「観」の目で眺めれば、オギャーと生まれた瞬間から、人はみな平等に死に向かって突き進んでいる存在です。

遅かれ早かれいずれお迎えが来る。

「それならジタバタしてもしょうがない」

手放せば楽になるものです。
フッと肩の荷が下りて気持ちが軽くなったら、かえって自然治癒力が働いて元気に長生きするかもしれません。

実際、余命半年と宣告された人が、あきらめて余生を自分の好きなことをして生きようと決意し、趣味に没頭したら3年も5年も生き延びたということがあります。

人生「わからない」ものです。

白か黒か、善か悪か、そんな世知辛い世の中であるなら、なおさら眉間にしわを寄せて「わかろう」としなくてもいい、笑って「わからない~」と言えることの素晴らしさをもう一度かみしめたいものです。

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2010 4/24 (土曜日)

無意識の不健康

こんにちは、こはりです。

甘いものが好きな人(脾虚:陰性体質)に膝痛や坐骨神経痛が多いわけ。

砂糖の過剰摂取→胃筋の弛緩(糖反射)→胃のぜん動弱化→胃下垂→下腹臓器圧迫→下腹動静脈圧迫→脚の血流低下→膝痛、坐骨神経痛

甘いものは好きではないし、普段そんなに食べていないという人も、現代の食生活(外食、加工食品)では知らず知らずのうちに大量摂取しているものです。

僕自身それに気が付いたのは日常的に自然食を食べるようになってからです。
やすらぎの里でのお食事は精製糖を一切使用しません。
素材の味を引き出し、甘味料としては伝統製法を守った本物のみりんや自然なかたちに近い精製度の低い甜菜糖やきび砂糖などを使います。
そうした食事に慣れると、世の中に出回る食品のベッタリとした不自然で人工的な甘みに嫌味を感じるようになりました。
今まではまったく気が付かなかったことです。

言い換えれば、いかに味覚の鈍った人が世の中に多いかということです。
むしろ鈍くさせられていると言えるかもしれません。

食品添加物業界関係者の話を聞くと年々その使用量が増えているといいます。
「メガ○○」「濃い味」「リッチ○○」花盛りの昨今。
合成的なうまみが添加されていないと物足りなく感じる消費者とそれに迎合する生産者。
この悪循環がますます味覚を鈍化させていくのです。

またコスト最優先の商業主義においては、惣菜などは料理の手間を省き食材の悪さを隠すために砂糖を大量投入することがあります。

一説によれば100年前の1人の平均年間摂取量をわずか2~3日で摂取している人も現代ではざらだということです。
これだけの大量摂取は有史以来、未曾有の出来事といえます。
生理的にどんな変調をもたらすのか、理性的であろうとするならば慎重に観察していかなければならないでしょう。

駅ビルやデパ地下ではこれでもかと砂糖をふりまいたスイーツが全盛です。
「スイーツ男子」なる言葉も聞きます。
草食化(少子化)に拍車がかかること請け合いです。

街のベーカリーをのぞいても、天然酵母の本物のパンを知れば、油脂と砂糖を若干の小麦粉でつないだかたまりにしか見えなくなります。

そもそも「白い粉」は自然界には存在しえない精製度のドラッグです。
驚くべき早さで吸収され脳を撹乱し精神を退廃させます。

うがった見方をすれば、そうした中毒性を利用した商業戦略に消費者は乗せられ無意識のうちにかけがえのない健康を売り渡していると言えなくもないわけです。
もっとも選ぶ自由があるので自己責任ですが。

仕事柄、生理痛や不妊症の女性とふれあう機会が多いですが、例外なくスイーツ中毒です。

低血糖によるうつ傾向とホルモンバランスの悪さ、内臓下垂による生殖器圧迫によるうっ血です。

低血糖と聞いて疑問をもたれた方もいるでしょうか。

甘いものをたくさん食べれば血糖値が上がって高血糖でしょうと。

短期的に見れば高血糖です。

しかし、急激に上がった血糖値は、人間の体の正常な働きとして、すぐさま正常値まで下げようとされます。

穀類に含まれるでんぷんのように消化に時間を要し、ゆっくりと吸収されればいいのですが、砂糖のように急激に吸収され血糖値が跳ね上がるようなことがあると、血糖値を急いで下げるべく膵臓はピッチをあげてインスリンを分泌しなければならなくなるのです。

こうした働きも繰り返していけば膵臓などの臓器に疲弊をきたし、いよいよインスリンを分泌できなくなる時がきます。これが糖尿病です。

低血糖のときは、簡単に言えば元気がなくなります。
精神的には憂うつとなり、体は疲労感があり冷えてきます。
ホルモンの分泌も減退します。
さまざまな疾病の素地ができます。

そんな時、手っ取り早く血糖を上げてくれるチョコレートやお菓子、アルコール(糖)などに手が伸びます。
実際に低血糖が解消されますのでハイになります。

しかし、また同じ繰り返しです。
急激に上がれば急激に下げられる。
血糖の激しい乱高下を繰り返しているだけです。

低血糖のときにイライラしたり、攻撃的になる人もいます。
これは低血糖という危機的状況を打開すべく、体は副腎という臓器からアドレナリンを分泌し血糖値を上げようとつとめます。それが過剰に分泌されれば人格を変えてしまうほどの影響を与えるものです。

実際、アメリカで行われた研究では犯罪者や非行少年の80%以上が低血糖症だったというデータがあります。

それは極論にしても、無感動で憂うつ、かんしゃく、神経過敏などの心のトラブルの原因が、現在の食生活にあるのではないかと考えてみる視座があってもいいと思います。

また精製糖は「空のカロリー食品」と呼ばれています。
余分なものをそぎ落とした形なので、糖(カロリー)だけあって、その代謝に必要な栄養素(ビタミン、ミネラル)が含まれていないのです。

そんな「空のカロリー食品」を食べればどうなるでしょうか。

カロリーだけ満たされ、それだけで満腹感を得られてしまいます。
そのために穀物や野菜など、その他のおかずを欲しなくなっていきます。

そして穀物や野菜などに含まれる代謝のために必要な栄養素の不足は、体脂肪が増えることにつながってきます。
「糖の代謝異常」です。つまり着火剤がないので燃えずに体の中に脂肪としてたまっていく状況が慢性化します。

また砂糖の過剰摂取は血液を酸性に傾けます。
すると体はPHを一定に保つためにカルシウムなどのミネラルを必要とします。
もし血液中に十分なカルシウムがなければ骨や歯から溶かし出してくることになるのです。

ますます体の栄養素を消耗していく悪循環が進行していきます。

日本をはじめ先進諸国には、発展途上国のようなカロリー不足に由来する栄養失調はありません。
しかし、それと同じくらい深刻な「微量栄養素の失調」が潜在し、日本を病気大国に押し上げようとしているわけです。

なかなか食欲を抑えられない、ついつい食べてしまう、そんな相談をよく受けます。

僕はその背景に「潜在的な栄養失調」があるのではないかと次第に思うようになりました。

「食べたい」という欲求は体にとって自然な欲求であるに違いありません。

「それではなぜ無性に食べたくなるのか」

それは飢餓を感じているからではないだろうかと。

「こんなに食べているのに?」

食べていても補われないものがあるからなのです。

「野菜を取るようにしているけれども」

今の野菜は一昔前の野菜に比べて格段に栄養量が劣るという研究データもあります。

いずれにしろ、まず栄養がなくただ栄養を浪費するだけの精製糖を控えていくに越したことはないでしょう。

でもなかなかやめられない。

体に悪いと頭ではわかっていても、なかなかやめられないのが中毒たるゆえんです。
かくいう僕もそうでした。
しかし、自然食を実践していくうちに味覚や体内環境が一新され甘いものに手が伸びにくくなりました。

食材のまるごとの生命に支えられ、足るを知るようになったと言いましょうか。

デフレスパイラルが進行する昨今、食品も例外ではなく、安さには必ずわけがあります。
すべて承知の上で便利さという光の部分の恩恵を受ける分には問題ないでしょう。自己責任の範疇です。
しかし、光があれば必ず裏に影があるということを、知っているのと知らないのとではおのずと生き方が変わってくるはずです。

かけがえのない地球の将来と、生命体としての自らと子々孫々の人生を含む大局的なビジョンの上に立ち、なるべく自然に近い食材を買い、自らの手で調理していきたいものです。

もっと言えば、あらゆる教育に先んじてされるべきが食育だと信じています。
栄養素を計算したり暗記することに何の意味もありません。

未来ある子どもたちに本当の食育を!

今、大人たちが抱える病苦が無駄にならないために。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

生命はもっと輝いていいはずなのだから…

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2010 4/18 (日曜日)

心と体にぬくもりを~スカートの下にジャージはいていいよ~

こんにちは、こはりです。

ダイエット本は、それこそ何万冊とあれど、太るための本というのはあまり見受けられません。
ダイエット本に比べて圧倒的に少ないのも、やせに対する偏見があってのことでしょう。
「やせてていいね」「食べても太らないなんてうらやましい」
そんな賛辞?を僕自身何度浴びたことでしょう。

外見的に太っている、やせている、という次元はさておいて、問題はその人の体感です。
大概やせている人は消化器系が弱いものです。
辛いもの冷たいものをとれば下痢をします。
日ごろ軟便ですっきりしないことも特徴です。
つまり消化吸収しきれていないのです。
そんな虚弱体質を元気付けようと食物をとろうとします。
ゆえに人並みに空腹を覚え、それなりの量も頂くことになるのです。
俗に言う「やせの大食い」です。
しかし、弱った胃腸にとって大食いは負担以外の何物でもなく、さらに胃腸を弱めてしまいます。
この悪循環がやせている人の悩みといえるでしょう。

体脂肪のない体で、消化不良を繰り返すということは、体を冷やすことになります。
食べすぎが戒められる最大の理由は「冷え」にこそあるのです。
食物を消化するために胃腸に血液が集中します。
すると相対的に末梢の血流が悪化するのです。
体が冷えると免疫力が低下します。
逆に体温が一度上がると免疫力が5倍上がるというのは最新の免疫学の見解です。
低体温はさらに、肥満、アレルギー疾患やうつなどの精神疾患、ひいてはガンを惹起します。

僕はここ数年、古今東西あらゆる健康法に触れました。
そして最近になってある結論が導き出されつつあります。
それは「冷え」こそが健康の阻害要因であると。
古典に還れば中国で1900年以上前に編纂された「傷寒論」から示唆されています。
今流行のゲルマニウム温浴や岩盤浴も結局は温熱療法から派生しているものです。
昔ながらのお灸、砂風呂、びわの葉温灸、こんにゃくシップ、枚挙に暇がありません。

こうした観点から言えば、使い捨てカイロは安価で手軽な方法といえます。
触れて冷たいところを温めればまず差し支えないでしょう。
さらに効率的に温めたければ、上半身では第一胸椎周囲に、下半身は仙骨を温めることです。

入浴はぬるめのお湯の半身浴がすすめられます。
なぜなら、肉でも魚でも強火で焼くと表面は焦げても中身が生であるように、人間の体もまた、熱いお湯につかれば温まったように感じるだけで芯まで温まっていないのです。
むしろ全身的な熱刺激に対して体は冷やそうと働き、かえって逆効果になりかねないのです。

部分浴の効用というのも見過ごせません。
冷たい液体に熱い液体を混入するとそこに対流が生まれることは自明の理ですが、この対流を体内に起こすことが、芯にこびりついた冷えをとる秘訣です。

冷たい飲料も控えたいところです。体温の源を体内で火が燃えているとイメージすれば、水分の大量摂取はその火に水をかけることと同じと言えます。
水を大量に飲む健康法もありますが、自分の体質の見極めを誤れば逆健康法になりうるといえます。

個人的にも冷えとりに試行錯誤した時がありました。
靴下を何枚も重ねるといいと聞けば実践しました。
しかし、むれるばかりで水虫になりました。
今考えれば外側から保温することばかり考えて、体内環境つまり食生活を一顧だにしていなかったからでした。
そうした経験を踏まえ、今では保温とともに食事を整え、運動も並行して行うことで冷えは改善されました。

そんな僕が、最近思うことがあります。

女子中高生の寒々しい姿です。
彼女らがスカートの丈を短くしていることを非難するのではないのです。
あのような未来ある少女の健康をふみにじる制服というものを強制するナンセンスな風習に、そしてそれを踏襲する教育行政に対して僕は声を大にして糾弾したいと思うのです。

思春期という心身にとって重要な時期、この寒空の下で、どうしてスカートをはかせるのでしょうか。
下半身、骨盤内臓器を冷やすことで、生殖器系、婦人科系のダメージは計り知れません。

今でも兆しが見えますが、5年後10年後、不妊で涙を流す女性がどれだけ増えることか。
そうなってからではもう遅いのです。

少子化対策と称して、市民の心理とは乖離した政策に血税を費やすより、今すぐ制服を撤廃されたい。
セーラー服などという軍国主義の亡霊のような服装を強制するセンスが21世紀の現代に生きているという滑稽。
…少々熱っぽくなりましたが、未来ある女性を眼前にして見ていられないのです。
彼女らが健康のうちに女性としての幸せを得られるように、笑顔の溢れる家庭を築けるように、健やかな子育てができるように、今何ができるか。

大人が多角的に提言できることはまだまだあると思うのです。

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2010 4/11 (日曜日)

夜のヨガ始めました。

深く眠ることは健康の基本

あらゆる健康法をもってしても、質の良い睡眠が得られなければ、その効果を期待できません。
なぜなら身体に秘める自然治癒力がもっとも旺盛となるのが睡眠中だからです。

人間の自律神経のリズムは、朝から昼にかけて活動的な交感神経が優位となり、夕方から夜にかけてはリラックスを促す副交感神経が優位となります。

これは自然のリズムに調和し、共生してきた人間の証となっているものです。

この生命の声に耳を傾ければ、睡眠は心がくつろぎ、体がゆるんでいくプロセスと言えます。

つまり体がゆるんで始めて質の高い睡眠が得られるということです。

ところが、現代人の生活は、往々にして自然のリズムに反し、夜中まで蛍光灯で煌々と照らされ、パソコン画面にかじりついています。

これでは早晩、自律神経の失調を招いてもおかしくありません。

寝つきが悪い…眠れない…すっきり起きられない…

こんな症状が出てきたら、薬に頼る前に、まずできることから始めてみてはいかがでしょうか。

胃の中に食物が残っていたり、筋肉がこっていたり、部分疲労があれば、それが刺激となって睡眠を妨げます。

夕食後は部屋の明かりをおとして、のんびりと家族で会話などを楽しむ。

寝しなは心や体がこわばるような悲観的、攻撃的な思考は止め、ゆったりとした呼吸とともに楽しい空想にふけりながら就寝する。

些細なことのようですが、人間の自然の一部としてのふるまいの中にこそ、本当の健康法すなわち健やかに生きる知恵があるように思います。

夜のヨガのテーマは「やすらぎ」を追求するところにあります。

個々のポーズのとらわれることなく、それぞれが自分なりの「やすらぎ」が得られるように。

一日の最後に静かなヨガの時間を…

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2010 4/4 (日曜日)

笑っている場合ですよ!

こんにちは、こはりです。

日々ヨガをしていて気づくことがあります。

縁側で気持ち良さそうにあくびをしながら伸びをするネコ。
それこそがまさに理想の姿ではないかと。

ネコは誰かに教わったわけでもなく、人のマネをしているわけでもなく、ただ無意識に自然に自分の気持ちの良い動きをしているまでです。
まして理屈や薀蓄があるわけではないでしょう。

人間でも睡眠中の寝返りは体のゆがみを是正する無意識の運動として評価される向きもあります。

それら不随意または錐体外路系の動きは、体の欲するままに動き出す各人固有の動きであって、今その体に最も必要とされているオリジナルの整体法と言えるものです。

生命の声に耳を傾けていけば、お仕着せの動きでは窮屈になってきてもおかしくありません。

もちろん、ヨガにおけるポーズは型として、基本習得またはけが予防の観点から合理的な配慮がなされています。

まず経るべき道程に違いありません。

それは日本の武芸で言われるところの「守破離」にかなうものです。

最初は師の型や動きを真似て忠実に伝統的な型を守っていく。
次に伝統をうち破って自分なりのオリジナリティを模索していく。
そして最終的には型を離れ道の奥義に到達する。

この発想に従えば守は技の基本にして本質といえます。
そこを軽視しては身勝手な我流に陥り、その道の深遠にして尊い極意に到達することはできないといえるでしょう。
身体意識や身体感覚の乏しい現代人が、身体軽視、意識主導の傲慢を打ち砕き、身体知そして自然的な感性が豊かであった先人に近づく唯一の方法であると考えます。

しかし、その先に、もしくは守と並行した形で破や離も視野に入れておいて不都合な理由はないと考えます。

そこで「笑い」が一石を投じてくるわけです。
老若男女分け隔てることなく、DNAに刻まれたあまりにも自然すぎるあたりまえな営み。

やすらぎの里では現在「笑い旋風」が吹き荒れています(大沢先生のブログに詳しい)

改めて斬新に感じるのは、日本の文化的な土壌では生まれ得なかった方法だからだと思います。

ヘラヘラするな、笑っている場合じゃない、真剣にやれ、そんな「頑張り」を是とするテンション民族。

一世を風靡した「前畑ガンバレ!」に象徴されるスポーツ根性論が後押しします。

「頑張る」は読んで字のごとく「かたくなにはる」ということであり、わき目も振らず一心不乱に緊張の糸を張り続けるような不自由さと危うさとが同居した語感があります。
ある時代までは重宝した概念かもしれませんが、多様化した現代において必須かといわれるとストレス学説や最新の免疫学などをかんがみても全面的に首肯できない面があります。

一方で余分なものを極力そぎ落とした禅的な静けさやわびさびともいえる洗練美、様式美の極致が求められる精神的な土壌もあります。

只管打坐に代表される、ただひたすらのシンプルさ。

静を極めたところにある悟り。

一方で笑いは動を極めていくことで、道は正反対でも行き着くところは同じ「悟り」なのではないかと思われます。

もちろん覚者ではないので悟りの全容を把握することはできませんが、「拝む心」つまりすべてを肯定的に受け止める心となることが、おだやかでやすらいだ心境を切り開くものではないかと想像されます。

笑いは否定的な精神によって培われる拒絶感からは表出し得ないものです。

さらには開かれた心と体で清濁併せ呑むところに発露する、人間の人間たる高尚な営みではないかとも思えるのです。

心理学では末梢説と中枢説の論争がありますが、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである」の方が、東洋的な心身一如の生命観に根ざす我々にとっては親しみやすい考え方でもあります。

心は後からついてくる。

内面に収斂していく修行スタイルは山篭りなど必然的に人を遠ざけていきます。
しかし、笑顔を振りまく笑いヨガは、自分と同時に他人を楽しませ、場を和ませることができます。
そんな螺旋状に善行を積み善果を重ねるあり方は多分にカルマヨガ的でもあります。

生活の中にあって自他の境界なく、共に高みに向かうあり方は、人間関係が希薄となった現代だからこそ、とみに求められるものなのかもしれません。

ともあれ、何も考えずに笑うことが大事なんでしょうね…

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    2泊3日 32,340円

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    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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