こんにちは、こはりです。
日々勉強です。
幸い僕は良い師にめぐり合えています。
これ以上ない最高の師と言ってもいいと思います。
現在は大沢先生の下で学ばせていただいていますが、それまでにも学問や合気道、指圧の世界、それぞれで一生慕い続けたいと思えるほどの師匠に出会う機会をいただけています。
僕は以前から信条としているものがあります。
『三年学ばんより三年師を選べ』
これは僕の若干の人生経験から、また様々な伝統技芸の世界に身をおいて切実に感じてきたことです。
修行が三年遅れるとも、三年待って良師を選べ、という主旨です。
それだけ初めの姿勢や心構え、道の基本や原理原則が重要だということを表しているのだと思います。
しかし、その師にめぐり合えるまで、まったく受動的であって良いというわけではないと思っています(これは恋愛にも通じるのかな?)
師の下で学べるだけの資質が身につくまで、機会が与えられないものなのではないでしょうか。
「機が熟す」といいますが、こちら側にある程度の準備ができたときに、最良のタイミングで出会いがあるのだと思います。
ある期間、思いを募らせ独学、実践し、知識欲、好奇心が最高度までに高まったとき、つまりスポンジが乾き切ったときに、「教え」という水が降り注ぐのでしょう。
ですから、出会いを「待つこと」も決して苦ではありません。
志を明確に持って、人事を尽くして天命に任せていると、おのずと道が開けてくるようです。
それが間違いかもしれませんが、僕は今までそうしてきました、そして今があります。
なので、今後もずっとそうしていきたいと思っています。
今日またヨガの師にめぐり合いました。
ずっと遠くから尊敬し続けてきた人です。
現在の治療家としての僕に先生はこうおっしゃいました。
「ただの修理屋になってはいけない、単なるサービス業でも終わってはいけない。教育的な面を学び実践しなさい」と。
つまり、短期的な視点で関与することで、人の依存心を助長するようなことをしては、かえってその人の幸せや健康を奪いかねないということでしょう。
いかにも総合的、ヨガ的であることの勧めです。
僕は治療家として歩みだしてから、ずっとその思いを抱き続けてきました。
これまでブログでも書き続けてきたことでもあります。
僕のことを「純然たる治療家ではない」という人がいます。
僕はそれに対して全く反発も怒りの感情も生まれませんでした。
ということは、自覚していたのでしょう。
技術を駆使して即物的に治して差し上げることができない。
否、それに重きを置いていない自分に。
「宗医一体」という言葉があります。
心と体の両面からのアプローチの重要性と言ったら要約し過ぎかもしれませんが、本来「医学者」は「宗教家」でなくてはならなかったということでしょう。
医祖ヒポクラテスの精神は今なお生き続けていると信じています。
医学の本質を突き詰めると、かならず心の問題、精神性から目を背けずにはいられなくなります。
現に医学の最先端を研究する超一流の医学博士の先生が、多分に精神的であることが裏付けています。
「治す治り方」「治る治り方」「治さない治り方」それぞれ科学的、哲学的、宗教的治療と表現できますが、どこを目指していくか。
僕はより本質的な道を進んでいきたいと思うのです。
それはなにより自分の人生の至上命題でもあります。
「なぜ生まれ、いかに生きるのか」
「人々の心身の平安と世界の平和のありか」
現代という混沌とした時代に生まれたからこそ、僕は光を求めていきたいと思うのです。
「師との出会い」という追い風に感謝しつつ…
【道】 松下幸之助
自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがいのないこの道。
広い時もある。
せまい時もある。
のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。