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2010 8/20 (金曜日)

朝のヨガ

こんにちは。YUNAです。

いつもあんまり続かない私ですが、

朝ヨガだけは続いています?a

朝早起きして~窓を全開にして~

ちょこっとヨガ?

朝の慌しさを一瞬でも忘れさせてくれるそんなひと時です。

なかなか忙しくて、自分の体に耳を傾けてあげられないので、
この時間をこれからも大切にしたいと思います。

いつまで続けられるか、楽しみです。

ちなみに私のちょこっとヨガの時間は 5分 なんです。

たった5分だけど~ぜんぜんその一日が変わってきますよ!!

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2010 8/19 (木曜日)

天与の尊い道がある

こんにちは、こはりです。

日々勉強です。

幸い僕は良い師にめぐり合えています。

これ以上ない最高の師と言ってもいいと思います。

現在は大沢先生の下で学ばせていただいていますが、それまでにも学問や合気道、指圧の世界、それぞれで一生慕い続けたいと思えるほどの師匠に出会う機会をいただけています。

僕は以前から信条としているものがあります。

『三年学ばんより三年師を選べ』

これは僕の若干の人生経験から、また様々な伝統技芸の世界に身をおいて切実に感じてきたことです。

修行が三年遅れるとも、三年待って良師を選べ、という主旨です。

それだけ初めの姿勢や心構え、道の基本や原理原則が重要だということを表しているのだと思います。

しかし、その師にめぐり合えるまで、まったく受動的であって良いというわけではないと思っています(これは恋愛にも通じるのかな?)

師の下で学べるだけの資質が身につくまで、機会が与えられないものなのではないでしょうか。

「機が熟す」といいますが、こちら側にある程度の準備ができたときに、最良のタイミングで出会いがあるのだと思います。

ある期間、思いを募らせ独学、実践し、知識欲、好奇心が最高度までに高まったとき、つまりスポンジが乾き切ったときに、「教え」という水が降り注ぐのでしょう。

ですから、出会いを「待つこと」も決して苦ではありません。

志を明確に持って、人事を尽くして天命に任せていると、おのずと道が開けてくるようです。

それが間違いかもしれませんが、僕は今までそうしてきました、そして今があります。

なので、今後もずっとそうしていきたいと思っています。

今日またヨガの師にめぐり合いました。

ずっと遠くから尊敬し続けてきた人です。

現在の治療家としての僕に先生はこうおっしゃいました。

「ただの修理屋になってはいけない、単なるサービス業でも終わってはいけない。教育的な面を学び実践しなさい」と。

つまり、短期的な視点で関与することで、人の依存心を助長するようなことをしては、かえってその人の幸せや健康を奪いかねないということでしょう。

いかにも総合的、ヨガ的であることの勧めです。

僕は治療家として歩みだしてから、ずっとその思いを抱き続けてきました。

これまでブログでも書き続けてきたことでもあります。

僕のことを「純然たる治療家ではない」という人がいます。

僕はそれに対して全く反発も怒りの感情も生まれませんでした。

ということは、自覚していたのでしょう。

技術を駆使して即物的に治して差し上げることができない。

否、それに重きを置いていない自分に。

「宗医一体」という言葉があります。

心と体の両面からのアプローチの重要性と言ったら要約し過ぎかもしれませんが、本来「医学者」は「宗教家」でなくてはならなかったということでしょう。

医祖ヒポクラテスの精神は今なお生き続けていると信じています。

医学の本質を突き詰めると、かならず心の問題、精神性から目を背けずにはいられなくなります。

現に医学の最先端を研究する超一流の医学博士の先生が、多分に精神的であることが裏付けています。

「治す治り方」「治る治り方」「治さない治り方」それぞれ科学的、哲学的、宗教的治療と表現できますが、どこを目指していくか。

僕はより本質的な道を進んでいきたいと思うのです。

それはなにより自分の人生の至上命題でもあります。

「なぜ生まれ、いかに生きるのか」

「人々の心身の平安と世界の平和のありか」

現代という混沌とした時代に生まれたからこそ、僕は光を求めていきたいと思うのです。

「師との出会い」という追い風に感謝しつつ…

【道】 松下幸之助
自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがいのないこの道。

広い時もある。
せまい時もある。
のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがいのないこの道ではないか。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。

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2010 8/17 (火曜日)

養生は薬によらず尋常の身持心のうちにこそあれ

こんにちは、こはりです。

運動不足、現代人の宿命とも言えるものかもしれない。

家電の充実で家事が大幅に軽減された。

公共交通機関の整備で歩く時間が激減した。

近年の生活習慣病の増加を見れば、あきらかに利便性、経済効率と引き換えに、現代人はかけがえのない健康を売り渡しているとはいえないだろうか。

とりわけ歩く時間の激減が、人間を人間たらしめる足腰の弱化を招き、心身の不安定を誘発しているのではないかと考える。

「頭寒足熱」とは東洋的な心身の理想状態を表現している。

「上虚下実」とも言うが、下腹(丹田)を核として、下半身が力強く充実していて、その反対に上半身はすっきりと力が抜けている状態である。

その反対が、「上実下虚」であり、上半身にのぼせ上がり、気が立つ、ほてる、首肩がこる、脳の緊張興奮がとれず不眠になる。
下半身が力なく弱れば、足腰が冷え、腰の力が抜けることによりヘルニアや腎機能の低下を起こし、女性であれば婦人科疾患を招く。

運動不足は単なるカロリー消費という問題だけではなく、心と体を包括した「気」や「エネルギー」の観点からも、重要なファクターとなる。

現代人は一日に5000歩から7000歩くらい歩いているとされる。

結構歩いているように思われるかもしれない。

江戸時代と比べてみる。

庶民で一日30000歩、15km歩いていたとされる。

その差は歴然としている。

幕末の時代、未曾有の国家的危機の中で、多くの傑物が出て難局を乗り切れたのも、歩行によって培われた「胆力」によるものとするのは言いすぎだろうか。

現代では社会的地位が高くなるほど、お抱えの運転手などがいて歩数の減少に拍車がかかる。

これは由々しき事態である。

しかしながら、真のエグゼクティブはそれを補完するエクササイズを、ジムやパーソナルトレーニングなどで行って心身の健康を保っているのだろう。

それでは庶民はこの不況の時代に、いかに心身の健康を保ちうるか。

自らの心身に投資できる金額は限られている。

そこで提案したいのが「生活即エクササイズ」の発想だ。

健康のための運動に時間を割くのは、おっくうであるという人が多いのではないか。

一日働いて帰ってきて、それから運動となると気がめいるのも理解できる。

無理やり奮い立たせて、いやいや運動したとしても、それはストレス以外の何物でもなく、かえって健康を損なう結果になるのは目に見えている。

発想を転換しよう。

帰ってからやるのではなく、仕事中であろうが、エクササイズに変えてしまうというものだ。

例えば地下鉄などの移動は、階層構造になっているため必ずエスカレーターや階段を使うことになる。

この時、エレベータやエスカレータを使うのではなく、積極的に階段をのぼってみる。

今までは、長い階段を見ると嫌気が差していたのを、発想の転換により、長い階段であるほどに喜び勇む在り方だ。

「これはラッキー!」「健康のための運動ができるぞ!」「しかも無償で!」

エスカレータの右側追い越し車線に並び歩くなどという姑息なマネはせず、正々堂々階段に挑むのだ。

しかも、ただのぼるだけではつまらない。

一足飛び、二足飛び、をとりまぜて、時につま先立ちで、変化に富んだ刺激を与える。

ヨガでは体の同じ部位に同じ刺激が繰り返し与えられ続けると、それがたとえ良い刺激であっても、偏らせ、歪ませ、鈍くさせる原因となると考えている。

たとえば、ゴルフなど一方に捻ることを強要する運動では体にゆがみを生みやすい。
実際腰痛で悩む人が多いのが何よりの証左だ。

そんなときはヨガでは「逆刺激」の解決法が用意されている。

すなわち、いつものゴルフスイングと反対にねじる運動を行うことで、ゆがみが是正され、不快な症状が解消されるというものだ。

ヨガの要素「前屈」「後屈」「側屈」「ねじり」は、そうした身体のゆがみに対し変化に富んだ刺激をタイミングよく与えることを旨としている。

ゆえに体に良いといわれるポーズでも、毎日何度も繰り返していてはかえって害になりかねない。

だから階段をのぼることひとつとっても、マンネリにならずいろいろな刺激に変えてみるといい。

それはまた動機付けにもなる。

デスクワークで座っている姿勢は、股関節を折り曲げた「前屈」の姿勢だ。

パソコンに向かえばさらに手が前に来て、集中が高まるほどに顔が前に突き出し前屈が強まってくる。

胸がせばまり背中が張ってくる。

首が前にせり出せば固くこわばってくる。

首が凝ると脳に向かう頚動静脈が圧迫され、目がかすんだり、脳の酸欠を招くだろう。

そんなときは「逆刺激」である「後屈」がいい。

背もたれにもたれかかって反り返るのもいいだろう。

大概はあくびと同様に自然にやっているのではないか。

本来はそうしたゆがみを治したり、疲労を回復するための動きは、あくびやくしゃみをするのと同じように生理現象の一つとして行われるべきものだ。

ネコがしきりに伸びをするのがそれで、人間でも寝返りがまさしく自然的な整体法と言われている。

元気活発な子どものほうが寝相が悪い。

それはなによりしなやかな健康の証であり、寝た時と起きる時がまったく同じ姿勢であるということは、感覚が鈍化してゆがみが硬直したとりかえしのつかない身体ともいえる。

現代人は特にそうした自然的な感性が鈍くなる傾向にある。

都市化が進み自然に触れる機会が少なくなったこともその原因としてあるだろう。

日の出日の入りの自然の摂理を無視して、一日中蛍光灯がギラギラと照りつけたところにいれば、早晩バイオリズムに狂いを来たし自律神経の失調を招くだろう。

同様に本来備わった体の知恵というものが、どんどん覆い隠されているのが現代人の特徴でもある。

今まで風邪ひとつひかなかった元気だった人が、ある日突然コロッと若死するのは、まさに典型的なケースだ。

本来なら体は繊細に反応しあるときは下痢や発熱などでゆがみを是正するのが体の知恵というものだ。

ところがそうした日々のメンテナンスを怠ってきたせいで、負の要素は蓄積し、あるとき臨界点を超えて爆発を起こす。

病気になってからは、特に重篤な場合は、大々的な外科手術など西洋医学の手を借りなければ救命できないこともある。

しかし、本当の治癒はそこにあるのではなく、日々の養生にこそ、些細ともいえる身体の反応にこそあるということを忘れてはならないだろう。

瑣末にすぎる階段昇り降りが最先端医療にも勝るとも劣らない治療法になるなどとは、なんと大げさな。

くだらない、そう思われるかもしれない。

しかし、「養生は薬によらず尋常の身持心のうちにこそあれ」の言葉の通り、いかに日々の生活を、その字のごとく「生を活かす」ことに転化できるかにかかっている。

お金をかけず、時間を割くこともせず、仕事も、家庭も、楽しんで健康法に変えてしまう。

「生命が輝く方向へ」

人生が有意義であるということは、まさにそういうことではないだろうか。

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2010 8/17

八幡野花火大会

おはようございます。 YUNAです。

遅れましたが、花火大会のことをアップします。

8月14日に 八幡野港で八幡野花火大会がありました。

スタッフの皆様からの評判がとってもよく、
ありがたいことにその日はお仕事OFF日?

気合を入れて5時前に開催場所に着きました。

それから花火打ち上げまでの時間は出店でお腹も大満足。
外で自然そして素敵な海をみながら食事をするのは本当に贅沢なじかんでした。

あっという間に打ち上げ時間の八時!!

いままでに経験したどの花火よりもすばらしかったです~~?a
なんだか別世界にきたようでした。

来年、八幡野の花火大会日にあわせて是非伊豆高原にお越しください。
体も心もリセットそして感動の体験が待ってます

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2010 8/14 (土曜日)

初志

こんにちは、こはりです。

運動オンチの僕が高校の時分、ひょんなことから合気道を始めた。

肉体と精神を横断するそれにのめりこんだ僕は、次第に理念であった万有愛護の答えを模索していた。

武道にして争いを好まず、世界平和を希求するとは、なんというパラドックスか。

本当の幸福、心身の平安のありかを求め、民間療法や身体哲学の世界に必然的に足を踏み入れることになった。

そこで知ることとなった「マクロビオティック」

明治時代の日本陸軍薬剤監石塚左玄の「食養」「正食」に始まり、易経、陰陽論を融合させ「マクロビオティック」として継承、発展させた桜沢如一、その弟子久司道夫。

何も特別なことはない。穀物と野菜を主体とした伝統的な和食。玄米食に特徴を見る。

食物の性質を見極める「陰陽調和」、そして生まれ育った土地で採れた食材を調理した食事が長寿と健康の源になるという「身土不二」、一つの食材の全体を食べることをすすめる「一物全体」の思想がある。

合気道の開祖、植芝盛平が晩年菜食だった。「肉を食べると気が荒れる」と言っていたらしい。

ジョンレノン、トムクルーズ、マドンナ、ジョントラボルタ、シャロンストーン、坂本龍一、松井秀喜、挙げたらキリがないが、いずれもマクロビアン(マクロビオティック実践家)だ。

マクロビは食養にとどまらず一大思想体系として世界平和運動と一体化している。

なぜか?

僕なりに食養の重要性は実感している。

「しっかり食べなさい。食べることは生きる力になるんだから」大好きだったひいおばあちゃんが夢枕に立ってこう言ったのは何年前になるだろうか。
人々の健康を預かる治療家を志して、さらにその言葉は重くのしかかっている。

ずいぶん前になるが印象的な出来事があった。

夕方の待ち合わせまで時間があったので某ファーストフード店でコーヒーを飲んでいた。
そこにはお母さんと二人の子ども。1~2才と3~4才の女の子の前には無造作にフライドポテトとハンバーガー。お母さんはメールに夢中のようだ。その光景は家族での食事とは程遠く、僕には家畜にえさをやっているようにしか見えなかった。そこには栄養のバランスもなければ会話もなく食の楽しみすらもなかった。

「食養こそ根本療法である」

手技療法を生業とする者にあるまじき発言かもしれない。
批判も免れないだろう。
しかし、僕は声高に言い続けてきた。これからも言い続けるだろう。
健康法、民間療法といえども、食養の前では小手先の対症療法だ。
長年の悪しき生活習慣の蓄積が病として表れている。
ゆえに真の健康を得るためには生活習慣、すなわちその人の生き方、価値観を根底から変革する必要がある。
長時間パソコンを続け肩が凝る目が疲れるといって、いくら肩をもみ目に効くツボを圧そうが、その習慣が変わらない限り症状が永続的に消えることはない。
あまりにも当然の理屈。それがなかなか理解されない。
人はみなインスタントを求める。お金を出せば健康は買える物だと。

ここまで言うと僕が現在生業としている手技療法がまったく無意味であるかのように受け取られかねない。
僕もまったく社会に貢献しない仕事をしているほど愚かではない。
心身を整えることによって、感度の良いしなやかな心身の状態をつくる。
その上で自らの心身の状態に目を向け、自らで改善の道を歩んでもらうように仕向けるのが僕の仕事だと思っている。
つまり僕には背中を押すことしかできない。
「きっかけ」をつくって差し上げている。
その意味においてまったく無駄な療法と言う訳ではない。

しかし、食養が根本療法たる理由がある。
食事は一般的に一日に三回いただく。
あらゆる健康法たとえば指圧や体操など毎日行えばいい方だ。
自分一人で行うものであれば面倒な時はやらなくても誰に怒られることもない。
お金のかかることであれば経済的な制約もある。
ところが食事は欠かさずとるではないか。
いや食べずには生きられないと言った方が適切か。
その不断の習慣を健康法に活用しないわけがない。ぜひ活用すべきだ。

食事を巨視的にみれば「生命をいただき生命に変える行為」と言えないだろうか。
すなわち生命の質を決めるのもいただく生命によっている。

それではどのような食事が良いのか。

古今東西さまざまな方法がある。
それぞれ共通性もあればまったく反対の理論をもっていることもある。
また現代の栄養学の知見では到底理解できないような禍々しく胡散臭いほどに奇怪な理論も多い。
すると人々はどれが正しいのか迷い困り果てるだろう。

僕は現代の栄養学に対して疑問を抱いている。

かといって信奉する既存の食餌療法はない。

ただ僕には一つの答えがある。
偏見を恐れずに言えば「感度の良い心身状態で食べること」である。
自分の身体に合う物は自分が一番よく知っているはずだ。
悪いものを食べれば吐き下痢をする。
その敏感な身体に感謝すべきであり、明らかに身体に良くないものをおいしく感じる身体は鈍感になっていることを知ることだ。
巷にあふれる食品、世間でおいしいと評判の食品。
それは必ずしも敏感な身体で選ばれていないことをまず知らなければならない。
「今流行の…」といえば聞こえはいいが、鈍感な人たちが寄って集めって選んだ粗悪品と捉えることもできる。
それは自分の身体の感覚を最優先にするというスタンスだ。
誰よりも優れているという自負がなくてはつとまらない。
「なんと高飛車な」そう思うだろうか。
そう思った人たちに僕はこう言いたい「なんと卑屈な」

「唯我独尊」生きていく上でそのくらいの気概があっていい。

結論になってしまうが「自己愛こそ健康の特効薬」なのだ。
仏教では「渇愛」が不幸や病の源としている。

最近、「精神疾患は栄養失調が原因である」という研究報告があった。
そんなこと東洋医学では何千年も前からこころとからだはひとつ「心身一如」と言ってきた。粗末でもいい、心豊かな食生活を送りたいものだ。

フライドポテトをしゃぶっていた女の子の顔色は悪く表情もかたかった。
その子の親に僕は「親としての自覚はあるか!」と糾弾したい気持ちでいっぱいだった。
高価なものを食わせろというのではない。
鈍感無神経な親に生まれた子に責任はないではないか。
この子が愛の中で産まれてきた日のことを思い出し、その子の未来をつくっているという気概を持ち、どうか心あたたまる食事を教えてほしい。
ファーストフード店でただ機械的に食べさせて本当の家族の幸せを得られるだろうか。
一時の楽しさに流される人間の弱さを知っている。
でも子の為なら命を投げ出せる親の美しき強さも知っている。
メールはいつでもできるじゃないか。
そのメールを打つ手をやめて一品でもいいのでどうか料理してほしい。そしてその子をやさしく抱いてほしい。

あなたの手はそのためにあるのですから。

マザーテレサは言っていた。

愛は家庭から始まります。
まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。
両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。
平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。
自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません。

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    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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