こんにちは YUNA です。
世間はお盆休みの真っ只中
伊豆高原もいつも以上の観光客であふれています。
みんなとってもいい笑顔。楽しまれているようです。
どんな人でも笑顔っていいですよね
笑顔をみると私まで幸せになります。
とっても素敵なプラスのパワーを頂いて、癒される日々です。
感謝です。
こんにちは、こはりです。
僕がヨガをやるとき常に取り入れている操法があります。
「足首まわし」です。
整体の世界では足首は卵巣と対応していると考えます。
地面に接する土台となる関節であり、その上にある骨盤を支えていることからも、骨盤のバランスやその内部にある生殖器系の臓器に影響するのでしょう。
また東洋医学では体の末端を気の出入り口であると考え、関節はその要衝として、気の滞りが表れやすい部位であり、効果的な治療点にもなります。
やり方
手の指と足の指を組ませるようにして、足首を回転させていきます。
動く範囲いっぱいに、なめらかに、時に緩急をつけて行います。
足首を構成するアキレス腱は身体の後部の要となり、上は頭部までつながり、脳の緊張状態や血行を表す部位でもあります。
アキレス腱をしなやかに刺激すれば、のぼせを下げ、脳の緊張をとることができます。
現代人に特有の不定愁訴も「上虚下実」を実現すれば改善するでしょう。
そして筋肉の柔軟性にも、骨に付着する腱を和らげることで全身的な柔軟性を助けることができます。
ヨガやスポーツの準備体操として、また健康を維持するための養生法としてオススメできるものです。
単純な動作の中に、複数のねらいがあります。
生理痛や生理不順などの婦人科系の疾患はもちろん、不眠症や全身疾患にも効果が見込めます。
「脚下照顧」
足元を照らし我を顧みる。
自分自身を見つめなおす時間。
禅にも連なる心身の健康法です。
こんにちは、こはりです。
みなさんはどんなときに「スッキリ」を感じますか?
僕の場合、
朝、職場に向かう道すがら、晴れ渡る空の下、朝露を含んだ新緑に囲まれて、澄み切った空気を胸いっぱい吸い込んだとき。
ヨガで気持ちよく伸びをして呼吸が深まったとき。
合気道の稽古で友人と切磋琢磨して汗をいっぱい流したとき。
気の合う仲間と好きなことについて大いに笑い語り合っているとき。
カラオケで十八番をノリノリに歌い上げたとき。
感動的な映画を観て、涙が頬をぬらしたとき。
整った食生活で作られた臭くない大便が、程よい固さとボリュームをもって、なんのためらいもなく出たとき。
などです。
こんなとき、心身の毒が抜け出て浄化されていくのを感じます。
かたより、よどみ、停滞していたエネルギーが、全身くまなく活発に動き出すことによって浄化の好循環に入るように思います。
出すことで入ってくる。
入ってくることで出ていく。
このスムーズな循環が何らかの原因で途絶えたとき、不快な感情を抱き、ひいては体に不調を引き起こすのでしょう。
心と体は分かち難く結びついています。
また人間の関係性においてもエネルギーの円滑な交歓があって、愛の萌芽をみるのでしょう。
反面、利己的な欲望には限りがありません。
気がつくと我利我利に「とにかく溜め込んでいく」方向に突き進んでしまうのが、また人間の性でもあります。
だからこそ、最初はおっくうでも、勢い行動に移してみる。
動き出せば、俄然追い風が吹いてきます。
笑顔が笑顔で返ってくるように、浄化のスパイラルの始まりです。
なぜそれが「スッキリ」なのか?
突き詰めて考えれば、神様がくれた善意に対するお墨付きのようなものかもしれません。
「生活即デトックス」の境地へ
こんにちは、こはりです。
先日、東京に出かけ地下鉄に乗る機会があった。
混雑する車内、つり革につかまり立っていた。
少し離れた所に同じように中年の女性がつり革につかまり立っていた。
なんとなくその人が気になり見ていたら、駅に着いた車内に新たな乗客がなだれ込んできた。
その時、男性が人と人との間をすり抜けようとしたとき、その中年の女性の抱えるかばんにぶつかってしまった。
全く悪意のあるものではなかったが、その行為に中年の女性は怒り、鬼のような形相で男性をにらみつけブツブツと文句を言っている。
男性は気づかぬような素振りであったが、すぐ隣で数分にわたりにらみ続けていたのだから気づいていたに違いない。
僕ははからずもその光景を目の当たりにし、暗澹たる気持ちになった。
久し振りに帰省した仮にも僕の故郷だ。
そんな景色は見たくない。
そして何より「もったいない」と思った。
怒りに打ち震えているその時間、血圧は上昇し、脈拍は乱れ、呼吸は浅くなり、血液は濁る、老化は進み、自分で自分の寿命を縮めている。
「痛い!」「なんてことするの!」「謝ってちょうだい!」中年の女性はそんな思いに駆られていたのだろうか。
それにしても分が悪すぎる。
自分かわいさに怒っているのかもしれないが、自分を傷つけてしまっている矛盾。
怒りはつくづく無駄だと思った。
自分の利益のために主張しているのかもしれないが、自分の利益になっていない。
さらに他人を不愉快にさせ、反発心を生じせしめ、悪意を増幅させている。
時間を巻き戻して、ぶつかった瞬間、その女性が「あら、すみません」と先手を打って相手の目を見てこう言ったなら、男性は「こちらこそすみませんでした、おケガないですか?」そんな会話が生まれたかもしれない。
お互い気遣って、気持ちの良い後味が残ったかもしれない。
周囲にいる人たちも、そんな和やかな光景を目の当たりにして心がほっと和むかもしれない。
自分も他人も思いがけず幸せにするあり方があった。
どちらが得策と言えるだろうか。
「ぶつけられた」と思ったら怒りも生まれるかもしれない。
「ぶつかってしまった」もっと言えば「ぶつかったところがちょうどいいツボに入って気持ちよかった、ありがとう」そんな解釈ができたならば、もっと穏やかな気持ちでいられたかもしれない。
「私は不幸だ」と嘆く人がいる。
この出来事から感じることは、不幸など存在せず、不幸と解釈したにすぎないということ。
また別の日、電車のいすに座っていたとき、隣に座っていた男性がいた。
僕と男性との間には、一人分にしては少し心細いスペースがあいていた。
しばらくすると、そこに座ろうと中年の男性がやってきた。
今にも腰掛けようとお尻をいすに近づけているとき、その男性が座らせまいとひじを張り、座ろうとする中年男性のお尻から腰にかけて突き立てていた。
なんという悪意。
あいた口がふさがらなかった。
またしても「怒り」である。
お互い嫌な思いをしているではないか。
さらに当事者ではないただの傍観者の僕まで嫌な思いをしている。
こんな誰の得にもならない愚行があるだろうか。
刺激→反応、これではあまりにも近視眼的にすぎる。
動物以下ではないか。
思いやりも気遣いも愛も、きっと想像力の別名なのだろう。
想像力が働けば、怒った後の顛末を容易に想像できるはずだ。
なおも「怒り」を選択するだろうか。
そんな理屈も、忙しない現代東京では通用しないのかもしれない。
「忙しない」の字の通り、良心を殺されるような、個人主義と排他主義が蔓延している。
自分と他人の線引きを明確にしなければ、超密集した都心を闊歩できないのかもしれない。
かくいう僕も東京を闊歩していたときは、無関心を装い、想像力の芽を摘んでいたのかもしれない。
隣に腰掛けようとする人が、愛する恋人だったら、父母だったら、子だったら、そんなことはしないだろう。
否、今はもう親の子殺し、子の親殺しが頻発する時代。
「人類みな兄弟」のスローガンは過去の遺物と化してしまったのだろうか。
管仲は「衣食足りて礼節を知る」と言った。
現代社会は「衣食足りて礼節を知らず」だ。
つける薬がない。
それではもう希望はないか。
ある。
「食を断って礼節が蘇る」
断食がある。
衣食足りすぎて、感謝の心が失われた。
それなら積極的に断食しよう。
失って初めて気づくありがたさがある。
まさしく人間性の復権、自他を活かす愛の萌芽だ。