する贅沢から、しない贅沢へ

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2010 9/26 (日曜日)

「宗医一体」の真意 完結編

こんにちは、こはりです。これで完結です。

「なぜ、その不快な症状に悩まされているのか?」

つらくてたまらない時に、そんな疑問を差し挟む余地はないと言えるかもしれない。

その反対に、刻々と悪化の一途をたどり、迫り来る病魔に対して、否応なくその疑問に向き合う機会を得られるかもしれない。

例えば痛みの解決策として選択肢は二つある。

「とにかく鎮痛剤的な処置で間に合わせる」

「原因を取り除く」

のどちらかである。

「なぜ、病気を治したいのか?」

苦から逃れる生物としての生存本能。

たしかにそれは理屈ではないかもしれない。

きわめて原初的な欲求である。

しかし、野生動物の世界に医者は存在しない。

当然、頼るものがない動物は、自らが休息したり、一切の食物を絶ったり、薬になる植物を選んで食べたりすることで回復を待つ。

一方で人間は専門家に身をゆだねることができる。

自らの主体的な行動を一切放棄することさえできる。

これが医療費高騰が示す人類の享受する幸せな文明社会だ。

「病気が治るとはどういうことか?」

症状がなくなること。

つらいときほど、そんな答えが真っ先に聞こえてきそうだ。

専門家に身をゆだね、専門的な技術を駆使してもらい、たしかに苦痛から逃れることはできるかもしれない。

でもちょっと立ち止まって考えてみる。

「症状がなくなること=病気でないこと」

いや、違うようだ。

例えば、放埓な食生活を続け、血液検査は軒並み異常数値。

しかし、症状ひとつない。

この状態は果たして健康そのものだろうか。

生活を変えず、悪癖を変えず、心の持ち方を変えないで、症状だけを消し去ってしまう。

もっと言えば積極的に他者に依存する姿勢が、それら根本的な原因に目を向ける機会を失わせていたのかもしれない。

僕はその危険性に気がついた。

人間の病気は、そのほとんどが「生活習慣病」である。

自然を離れ、文明生活を営む上で、不自然を強いられることが多くなった。

卑近な例が肥満や代謝異常である。

少食多動を強いられる野生に対して、大食寡動に陥る現代人。

これは地球に生物が誕生して以来、初めてのことではないだろうか。

「どこに原因があるのか」

説明のしかたはいくらでもある。

骨のゆがみ、筋肉のこり、血液循環、血液の質、免疫力の低下。

たしかに症状や疾病の原因になるものだろう。

ではそれらがなぜ起こるのか。

日々営む生活の仕方に収斂されないだろうか。

換言すれば、その生活の原動力となる「働き」である。

例えば、目の前に好物があれば、そこに気が向き手を差し伸べる、その働きである。

恐怖を感じた時、とっさに身をすくめる、その働きである。

ある人はその出来事を快と感じ、ある人は不快と感じる、その働きである。

「それでは病気を治すためにどうすればいいのか?」

自らを内観し、その「働き」に気づくことではないだろうか。

その働きに気づくことなく他物に頼り症状が取れたとしよう。

また再発するに違いない。

他者が技術的にできることは、筋肉に働きかけたり、骨格を整えたりすることであって、いわば表面に現れた二次的な歪みに対する是正である。

症状を隠して大病の芽を醸成することはあっても、原因となる働きには、単なる力学的な技術では触れ得ない。

症状や病気を「反省の機会」として、生活を総合的に見直す。

つまり症状や病気を敵対視し、排除すべしという発想を捨てることだ。

そこに心が表れていると謙虚に受け入れていく。

「我欲を超えて」

体の局所を診るから部分的で、視野を広げて体の全体を診るからホリスティックであるということにはならないだろう。

解剖学は死体の構造を明らかにしているかもしれないが、生きている人間の構造を明らかにしているとは言い切れない。

症状の消失が、生き方の好転につながるとするあり方もある。

そうした治療経験に出会った方は、指導者の資質と言うよりも、本人のそれまでの心の養い方に原因している。

商業的であるほどに、大概は依存心を増幅させることのリスクの方が大きい。

病気とは読んで字のごとく「気を病む」である。

原点に帰って、「生きていること」を見つめ、その「働き」を見出す。

そこには目には見えずとも、生かそうとする生命の躍動が息づいていることに気づく。

「生かされている」

病気がたいしたことじゃなくなる。

その時、治る。

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2010 9/24 (金曜日)

「宗医一体」の真意 後編

こんにちは、こはりです。前回のつづきです。

二人の師とは経絡指圧創始者 増永静人と沖ヨガ創始者 沖正弘のことだ。

駆け抜けた大正年間から昭和にかけて、「文壇の天窓を開け放った」と称される白樺派や、数々の新宗教、武道、療術などが勃興し、卓越した才能が多数輩出された時代であった。
社会科学的には「大正生命主義」と呼ばれる思想的区分である。
療術に限っても、それは百花繚乱、群雄割拠の様相を呈し、黄金時代と言っても過言ではないだろう。
その影響は現代においても色濃く、学ぶことは多く、時代を超える真理を内在しているものと考えている。

増永静人は東洋医学の原理をこう述べている。

『東洋の医学の原理は“自然に従え”ということですよ。これが大原則です。だから病気を通して、自然が持っている意味、自然とは何かということを反省するのです。いまの医学の治療が“治す”ことを主体に考えているのはおかしいので、“治る”という原理を自分の中からいかに掴むかということが医学の根本じゃないかと思います。自然というものの大きな力をもってすれば、こんなに簡単に“治る”じゃないか。それはあなたが自然の力というものをはっきり自覚したときに出てきたものだ、と言ってあげれば、みんなが一生懸命にその原理を求めようと思いますよ』

病気や症状についてはこう述べている。

『自然治癒能力というものが、果たして何を意味しているかを考え直す必要があります。人体の防御力が常に人体に有利に働くとは限らないと最近のストレス学説は教えていますね。むしろ、病気の苦痛は、ほとんどこの防御力の過剰な反応によっているとさえ言われています。病気になったのは自然治癒力が衰えたからだ、だから薬や治療でこれを援助するのだという考えは間違っています。病気という、生体に表れた歪みは、それ自体が、自然治癒力の努力なんだと考えるべきです。病気をすること自体が、生命の働きによる結果なのです。そう考えれば、病気をどうするかというよりも、その病気の原因となったものを問いかけることのほうが大切なのです。』

生命観へと発展して

『多くの人は、自分の生命を大事にすることが健康法だと思っている。しかし個体的な生命というのは自分だけの満足感ですよ。個々の生命は確かに大事ですが、それを保ちその生命を使って何かをしなければならない使命があるんです。みんなに。その使命が大事だからこそ我々は個体というものを大切にしなければいかんのです。結局、ここまでいかねば東洋医学ではないと、最近私は考えるようになりました。

どうしても使命を見つけねばいけない。何か、と。そうなれば、病気をする人にも、奇形の人にも、いろんな運命に出会う人にも、それぞれの意味がある。お互いに人間が見合って、「あの人から何を学ぶか」と考える。そういうものでなければ、人間という共同生命体の意味がわからない。また、人間が他の動物の生命、植物の生命を眺めることによって、自分の生命とはいったいどういうものだろうかと考える、そこに共通した生命観、生命としての一体感が生まれるんですね。これが仏教で言うところの「一木一草にも仏性有り」ということでしょうね。
このあいだも鯉の活造りを食べましてね、食べてる間もピクピク動いてますよ、「殺生やなあ」と食べてる人が言った。それで私は言ったんです。「あなた、殺生という言葉をつかったら、この鯉が泣くよ。この鯉を往生させるんですよ。往生ということは、この鯉の命が私に生きて、私のなかで新しい生命を保っているんだ。私のなかで、もっと大きな働きをするためにこの鯉は死んでくれたのだ。そういう見方をしなきゃ、鯉に悪いよ」と。お互い殺して行かなきゃならんことがあるけど、すべて往生ですよ。そしてまた私も、どっかの生命のところへ行って、新しい大きな働きのために往生する、と。これが生命の連帯感でしょうね。』

東洋医学がいかにホリスティックであるか思い知らされる。東洋医学と称して思想、哲学なく肉体のみを対象とした部分治療に明け暮れているのは本末転倒ということか。

翻って沖正弘は「真の医学は生命力を高める実行法を教えるもの」と題した文章でこう述べている。
『われわれは誰でも本来治る力が与えられているのであり、その力と働きを生命力と言うのである。であるから自己の力によって自然性を保ち、異常を回復できるように、心身の力を高め強め整える実行法を教えるものが真の医学であると言いうるのである。われわれは自分の心身を、生活を通じて使い養っている。だからこそ、生活の中でどのような体と心の使い方、養い方をさせているかが回復の鍵となるのである。誤った生活を心身にさせていれば異常になり、その生活を是正すれば治るというのが本当の導き方であり、そこに本当の医学があると私は信じている。ところが今の医学と称しているものは、一時的に変化させることを治療と称し、自ら治る力を高めるものでもなく、是正するものでもなく、ただ他物に頼って治そうとしているのである。また原因そのものが生活の中に存在するにもかかわらず、原因を簡単に考えて病名をつけ、しかも部分的な治療法で治そうとしている。私はこのようなやり方の中に本当の医学があるとは断じて思えないのである。』

「なぜ生まれ、いかに生きるのか」まで思いを馳せなければ、病の本当の治癒は訪れないということだろう。

また「宗教心を体得し病を癒す」の中でこう述べている。
『このような気づきから、私は治さない治し方の中に真実を見出した。それは宗教的な生き方を目指す方法である。病気を治す為には自分の心身の能力を浄め高めるだけでは不十分であり、何よりも心を尊くすることが必要なのである。宗教というものは人間にだけ与えられている仏性(仏になり得る能力)を開発するものである。すなわち人間だけが尊い心を持つ能力を与えられており、その尊い心に到る道筋を教えているのが宗教であり、愛の奉仕行を生活の旨とすべきなのである。宗教心が身についているかどうかは自分自身以外にはわかり得ないことである。私は宗教心とはこういうものであると定義づけた。それは感謝心、懺悔心、下座心を持ち愛の心をもって奉仕行を実行することである。またそれに尽きると信じている。そしてこのような感じ方、考え方、行い方を自分がどの程度できるようになったかが、宗教心体得の目安になるのである。それを私自身、自分で実行し、確かめてみて、間違いがないと信じるが故に真実として皆さんに申し上げているわけである。』

近年流行するヨガブームの裏には、現代人の深層に潜在する物質的な価値観の崩壊や、精神性、全体性への志向が読み取れないだろうか。

改めて先人の言葉をかみしめて、つくづく「本当のことしか言っていない」と思う。
徹底的に経験してきた末の言葉なのだ。

現代日本の自殺者は年間3万人を越える。
高度経済成長を経て国は富み、人々は物質的に満たされた。

その結果がこれだ。

このまま突き進んでいいのか。
何かが間違っているのではないか、と人々が考え始めてもおかしくないだろう。

閉塞感が募り、生きる力を失いかけている時代にこそ、生命を徹底的に見つめてきた彼らの言葉に耳を傾けたいと僕は思っている。

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2010 9/22 (水曜日)

「宗医一体」の真意

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こんにちは、こはりです。

同じ志をもつ盟友と久しぶりに杯を交わす機会があった。

そこでの話。

治療行為は「なぜ病気になり」「なぜ治るのか」を徹底して思索した上でなければならないという認識で一致した。

そうすれば「治す」という一方的な我欲や自意識が出てこないだろうと。

我欲をもって人をモノのように扱い、容赦なく物理的刺激を与える治療家がいる。
それで本当に治るだろうか。

「治そうと思うと治らない」

本質に迫ると、その真理に気がつく。

体に激しい動揺を与え、ただ変化しただけなのか、本当に永続的に治ったのか、見極めねばならないだろう。

病気は一方的に「治すもの」ではなくて「治るもの」に違いない。

なにがなんでも早く治す必要もないだろう。

病気になった原因があるからだ。

「治療家」という職業があるとすれば、症状という「自然治癒力の表れ」をとらえて、その自然な経過に添いながら、ともに病気の真意に気付いていくことではないだろうか。

たとえば二人で行う指圧。

「力でおす」

我の押し付けでしかない。

「寄り添い、もたれかかる」

支え合い、補い合いの境地が立ち現れてくる。

何かに飢え、渇望し、不足を感じているところを、理解し共感して差し上げる。
それ以上でも、それ以下でもない。
小手先のテクニックは二の次となる。

世間には様々な技法、理論があるが、すべて方便なのだろうと思う。

治癒という現象は、内的な変化、つまり心の好転が必ず伴っているはずだ。

その表れのひとつとして生活習慣の改善がある。

肉体を物質として捉え、人為的に操作することだけで人は決して治らないだろう。

そう断言するのは、心身の精妙さに謙虚に畏敬の念をはらっているからに他ならない。

「見えるもの」だけに囚われた物質的な志向は、手なり指先から伝わり、受け手は敏感に直感的にそれを感じとるものだ。

それでは精神的な不足を補うものにはならない。
むしろ肉体という器にとじこめられた根元的な孤独を突きつけられるかもしれない。

「治してやる」などという傲慢を排し、支え合う、補い合うという、きわめて本質的にして原初的な連帯、調和、共生としての人間の在り方のうちに真の治癒現象があるのだろう。

病気にも意味がある、否、意味を見い出し、それを進化向上に活かせるのは人間だけではないか。

親の子殺し、子の親殺しが頻発する昨今。

求められるのは、専売特許として専門家に独占されたギルド的な治療行為ではなく、人間関係の最小単位である家族間のふれあいに還元するという、いわば個人の疾病と社会的病理を含み込んだ巨視的な「本治」ではなかろうか。

…蒸し暑い東京上野の夜、居酒屋で冷や酒をチビチビやりながらの話は、こんな主旨であった。

次回はこの結論にたどりつくために、学び、これからも学び続けていく二人の師の言説を紹介し思索を深めていきたいと思う。

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