「断捨離」という言葉はだいぶ馴染みのあるものになりました。
やましたひでこさんが収納術とからめて提唱されたもので、もともと沖正弘先生による沖ヨガの修行哲学に由来するものです。
「断行、捨行、離行」を食事に当てはめてみることもできます。
「断行」は、そのままずばり「断食」です。
断とは日常性、習慣性を断ち、非日常に身を置くことです。
断食というと「食べないこと」であって、それによって、普段食べ過ぎによって酷使されている内臓に休息が与えられ、様々な生理的な効果が期待されますが、もう少し「断行」について踏み込んで言えば、非日常に身を置くことで改めて、あたりまえの日常のありがたみ、必要性、恩を感じられるようになるということです。
食べること以外にも、日常的な、寝ること、働くこと、家族と一緒に過ごすことなども、一度断ってみることで、改めて尊さが身にしみることと思います。
「ありがたみ」を取り戻す営みが「断行」と言えるでしょう。
「捨行」は、捨てるということですが、心身に溜め込んだ澱、ネガティブな感情や、脂肪、老廃物、腸内の残滓などを、きれいさっぱり捨てることです。
モノや情報にあふれ、一日中そうしたノイズに接する我々は、過剰な欲望を煽る風潮も相まって、必要なモノ以外にも不必要なモノも溜め込んでしまいます。
端的に言えば、それは便秘ですが、これは単に腸の機能低下だけでなく、手放すことへの漠然とした不安や恐れによって、出し惜しみしてしまう心が、体に表れているということもできるのではないでしょうか。
不安や恐れといった感情は、心身の緊張感となって交感神経を優位にさせ、内臓機能の低下させることは自律神経の観点からも説明がつきます。
外部からの情報やしがらみを遮断した非日常の場において、責任感や、意地、プライド、あるいは、焦りや不安、恐れなどを解き放って、大の字になって天を仰ぐかのように、おまかせの境地になってみることで、肉体的にも精神的にも本質的な「捨行」がなされるのだと思います。
「離行」ですが、これは一切のとらわれ、はからい、こだわりを手放すことだと思います。
体に良いからこれを食べる、体に悪いからこれは食べない。こうした、情報や知識に基づく食事法には、自らの身体に対する信頼もなければ、その声に耳を傾ける姿勢もありません。
外側にある情報や知識を判断基準にするということは、身体の声を抑圧することと同じで、早晩、身体からの嘆きが病気という形で表れてもおかしくありません。
身体の声に耳を傾けるということは、他者によってもたらされる理論や原理原則にとらわれるのではなく、自らの心身の快感覚に従うということです。
今の自分が最も必要としているものは、他の誰でもない自分が一番よく知っているのだという絶対的な信頼のもとに、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べて健康になるあり方です。
こう言うと、快感に耽溺し、放埒に流れ、不健康になってしまうのではないかと懸念される方もあるかもしれません。
たしかに、不自然極まる現代社会の日常性に慣れ、鈍麻した心身状態では、そうなってしまうでしょう。
しかし、ここで言ったような断行、捨行を経た心身は、本来の繊細な感覚を取り戻しているので、自分の欲求に従っても矩をこえず、たとえ、一時的に道を外れても、排泄するなり、解毒するなりの自浄作用が健全に働き、バランスを取り戻せることでしょう。
生命の働きを旺盛にしてくことによって、おのずと健康になっていくということが、誰の目にも明らかな王道であるにもかかわらず、往々にして外部の知識や情報に頼ることによって、むしろ自らの生命の働きを信頼せず、結果として貶めることが、まるで健康法であるかのように錯覚しているのが、情報過多の現代人の皮肉にも不健康な現実ではないでしょうか。
「断捨離」は物質主義の極まった現代日本にこそ、まさに必要な思想と言えるでしょう。