多くの病める人を救ってきた沖正弘先生がこんなことを言っていました。
『私の道場では、食事はもちろんのこと、あらゆる総合的な訓練法を実に合理的に行なっていると自負しているが、それでも効果の出ない人もいないわけではない。それが一体どういう人たちかいうと、肉体面のことだけに懸命になって、精神面の浄化と進化をすっかり忘れてしまい、生活是正の努力を欠いている人たちなのだ。体のためになることだけをいくら求め行なっても、心と生活の是正、向上させることを併せ行なわないかぎり、けっして救われないのだと、ここではっきり申し上げておきたい。私は体の方が三、心の方は七の割合で訓練して、やっと人間としてのバランスがとれるのであると教えているが、まさにそのとおりではないだろうか。』
沖先生の言動に説得力があるのは、ご自身が結核を16年、癌を13年と29年間、病気で苦しんだ経験があるからだと思います。
弟子に「先生はどういう方法で癌を治したのですか?」と問われて、「癌を治すことをやめたから治ったのだ」と答えたといいます。
この言葉にはとても深い意味があるように思います。
最近、僕は食事に関して、その日に出会う食べ物に縁を感じるようになりました。
過去には食事療法の理論に固執し、食材の善悪を弁別し、作為的に食事をしていた時期もありました。
自分の思い通りに行えていれば、幸せですが、何かの拍子で崩れたり、不可抗力に出くわしたりすると、猛烈な負の感情に悩まされるわけです。
食事療法の効果を相殺し得る影響力を、心は持っているものだと経験から言えます。
人生を真摯に振り返れば、「すべてのご縁に生かされている」という事実に思い至ります。
今日眼前に出会う食事もまた、一人の人格に触れるのと同じような心境でありたいと思うのです。
食前の心構えが重要になるということでもあります。
ろくに「いただきます」も言わずに、例え言ったとしても中身が伴わずに言葉ばかり上滑りしている場合、往々にして食べ方も心ここにあらずで、散漫、煩雑になりがちです。
反対に、食べる前に心の準備、落ち着きがある時というのは、感謝の気持ちを持って意識的に心ゆくまで味わえるような気がします。
そうなると、食べ過ぎることもなくなるでしょう。
『自然食をとっていれば、体の状態も自然に保てるなどと思っていたら、それは勘違いも甚しい。 自然食を自然食そのものとして受け取れる体であるかどうかを、まず問題にしなくてはならない。』と沖先生も言っていますが、
「食べる」ということは、生きるための栄養を取るというばかりではなく、不必要になったものを中和し、完全に排泄できることと、エネルギーを消耗する生活を伴って、はじめて円満に食物から栄養をいただくことができるということを忘れてはならないと思うのです。
「食べること」に臨むとき、いかに心身の態勢を整えるか。
食前に呼吸法を数回行ってもいいと思います。
または「いただきます」と心を込めて合掌するのもいいと思います。
沖ヨガでは「栄養摂取の誓い」を唱えます。
「栄養は自分に良いものを取り入れ、自分に悪いものを入れず、不要なものは出し切ることであると知りました。今からの私は、自分の内在智の教えに従って、自分に適し自分に必要なものを取り入れ、不要で不適なものは出し切るよう努めます。」
声に出して言うことで、潜在意識に刻まれ、行動が次第に変容します。
浄土真宗では食前と食後にこのように唱えます。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうにめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」
「尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげで、ごちそうさまでした。」
曹洞宗では「五観之偈」を唱えます。
一つには功の多少を計り彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんがためなり。
五つには成道のための故に今此の食を受く。
意訳。
第一に、われわれのいただく食には自然の恩恵をはじめ、多くの人々の労が費やされていることを忘れてはいけない。
第二に、食をいただくということは己のなすべき行いを果たすためであり。今日の自分にそれだけの資格があるかよく考えてみなければならない。
第三に、好きなものであっても貪りの心をもって食べてはいけない。また嫌いなものであっても怒りの心をもって食べてはならない。
食に対して迷いや過ちの心をもってはならない。
第四に、食は良薬であり、ゆえに己の体を枯死させないために服するものである。
第五には、今まさに人間としての真の道を成就させんがためにいただくのである。
そもそも食事というのは、自分が生きるために、他の生き物を殺すことです。
本来ならば、おのずと犠牲になってくれているものに対して、「すみません、ありがとうございます」の感情が沸き起こっていいはずなのです。
ところが、食べることがあまりにも日常的であり、慣れてしまうばかりに、感謝の気持ちもそこそこに、あたりまえにように食べてしまいます。
そればかりか、食物に善悪を決めつけ、自分かわいさに、より分けて食べるということは、利己的にすぎると言えないでしょうか。
その醜さは、これを対人に置き換えれば、すぐにわかることなのです。
モノと思えばできることも、それが生命と気づけば、躊躇されることもあるでしょう。
食事といえども、そこにおのずと人間的な感情があってしかるべきではないかと思います。
すなわち、感謝と懺悔です。
それを取り戻すために、日常性、習慣性を断つ、断食があります。
よりよく食べるために、食を断つ。
「断食」その語感から、食べることに対する、否定的なニュアンスがあるように思われますが、その内実、食べることに対して、きわめて肯定的な営みであるということにもはや気づかれたことと思います。
感謝のうちに食べることができる人は、自分にもその他のすべてのことにも、雑に接することはできないはずです。
それを健康と言わずしてなんというのでしょう。
病気であるかないか、短命であるか長寿であるか、それ以前に、その食事を味わい、その食事から気づき学び、今日も私たちは生かされているのです。