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2010 6/27 (日曜日)

母になるということ

こんにちは、こはりです。

2月に高原館で行われた妊娠力向上合宿に参加された方からお便りをいただきました。

「自然妊娠しました」とうれしいご報告でした。

スタッフみんな大喜び、幸せな気持ちにさせていただきました。

また、生命が宿るという奇跡をあらためて感じる機会でもありました。

やすらぎの里では妊娠力向上を謳い合宿を行っていますが、かろうじて受精にこぎつければいいとは考えていません。その先の安産をも見据えたものです。

そのためにも体質改善は必須で、おのずと食事、呼吸、姿勢、運動、精神活動を含んだ生活全般を見直すことが大切であると考えています。

また妊娠が果たせなかったとしても、それを受容できる安定した精神を醸成する一助になればと思います。

ヨガでは「自然性の回復」という立場で、生物としての自然な生殖活動を妨げるものに対して、積極的な実践を促します。

しかし、現代社会の複雑なところは、周囲をとりまく環境、電磁波、食品添加物、化学物質、などの影響も看過できないところがあります。

都市生活を行う以上、ある程度、文明の功罪を享受せざるを得ない面があるでしょう。

であるならば、悪環境から逃避したり、それを排除したりするだけでなく、身体を積極的に開発し、環境に対する適応性を高めていくことが必要ではないでしょうか。

ヨガでは「妊娠力の高いからだ=自然体」と定義します。

自然体とは、体の中心である丹田(へそ下約3cm)に力が集約され、それ以外の力が抜けている状態であり、どの細胞、どの部分にも血液が平等に分配される状態です。

すなわち内臓力の高い体であり、適応力のある心身といえます。

東洋医学的には?血(おけつ=骨盤内臓器うっ血)が婦人科系の失調を惹起しますが、骨盤内臓器への良質な血液の、潤沢な血流は腰腹力の強化や骨盤の開閉力をつけることで改善されます。

ヨガでは結跏趺坐を組めることが安産の目安といわれています。

柔軟な骨盤、股関節が分娩に必須であることの証左でしょう。

洋式トイレ全盛の昨今、以前の和式トイレのように股関節をダイナミックに開いたり伸ばしたりする機会が激減しました。
現代生活は利便性や経済効率と引き換えに、身体の自然性をますます失ってきているのだということを自覚しておく必要があるかもしれません。
意識的に四股立ちを行ったり、腹筋を鍛えることも重要になってくるでしょう。

運動不足で下半身に力がなく腰が抜けて浮き足立ち、頭脳労働やデスクワーク主体、意識主導で脳疲労、首肩上半身硬直の激しい現代人。

反対に、どっしりと安定した足腰をつくることは、腹の据わった何事にも動じない、しなやかな精神をつくることにつながります。

身心一如を前提とした東洋の叡智は、妊娠、出産のための体づくりと、ストレスを軽減しリラックスした精神の養成を同時に行える方法を持っています。

妊娠、出産という神秘を目の当たりにしたとき、この身に生命を宿すということは、決意と実践をともなって、それを聖なる神殿に変えていくことに他ならないと思うのです。

つくづく、母は美しきかな…

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2010 6/21 (月曜日)

こんにちは、こはりです。

歴史的にみれば代替療法や健康分野、身の上相談を担ってきたのは寺である。

インド発祥の仏教には当然ながらインドに培われた身体哲学、医学理論が内包されている。

心と体を包括的にとらえて、ライフスタイルをプロデュースしていく機能があったように思う。

ところが現代人の寺に対する印象は、参拝する対象に過ぎないのかもしれない。

サリン事件以降ヨガや宗教に対する嫌悪感はぬぐいがたいものになった。

ところが人間のもつ純粋素朴な宗教心というものを隠蔽することはできず、そのはけ口となるものが現今流行するお遍路であったりパワースポットとなるのだろう。

考えてみれば、心身に向き合う場を提供するやすらぎの里は現代の駆け込み寺といってもいい。

より本質的な寺の機能を継承しているとも言える。

断食をするとひもじくなって切なくなる。

家族のありがたみを感じたり、生かされていることを理屈ぬきで感じ、感謝の念が沸き起こってくる。

これは宗教の目指すべき境地にほかならない。

絶えず襲う空腹感や刻々と変化する身体の状況を逐一つぶさに知覚せざるを得ない。

これはまさに瞑想そのものでもある。

つまり断食は自動的に瞑想へ誘導する方法なのだ。

絶食療法として心療内科で盛んに利用されるのも、体のデトックスと同時に心のデトックスがはかれるからなのだろう。

「断食道場」とは使い古された言葉であるが、「道場」のもつ意味は失われてはいない。

むしろ本質はそこにあるように思う。

沖正弘の創始したヨガは求道ヨガと呼ばれたように、生活全般をすべて「道」にできる感性を提案した。

インドのヨガに東洋哲学や禅のエッセンスを取り入れた「求道ヨガ」は単にポーズをとるだけの形骸化したヨガではなく、ボディ、マインド、スピリットを包括するホリスティックなものだ。

生活そのものを「行法」ととらえるところに特徴がある。

お風呂に入るのも入浴行法、寝るのも睡眠行法。

生活そのものを真理探究の方法にするということだ。

つまり人間としての自然性を求め行じていくことでもある。

例えば朝目覚めたとき、合掌してこの誓いの言葉を唱える。

「目覚めの誓い」
ただいまわたくしは、目覚めさせていただきました。
目覚めたということは、生きるに充分な体力の与えられていることであります。
わたくしは今日一日、あらゆることに全力を出し切って生きることを誓います。

食事をいただく前には

「栄養摂取の誓い」
栄養は、自分によいものを取り入れ自分に悪いものをいれず不要なものは出しきることであると知りました。
自分取り入れて良いものと悪いものを知っているのは身体自身にあたえられている智恵であると知りました。
今からの私は、自分の内在智の教えに従って自分に適し、自分に必要なものを取り入れ不要で不適なものは出しきるよう努めます。
いただきます。

そうじの前にはこうだ

「清掃行法の誓い」
ただ今から私は、清掃行法を行わさせていただきます
この行法を通じて、心と生活の清めを誓います。
清い心とは求めない心です。
他に自分を捧げる心です。
一切のものに感謝する心であります。

実際やってみると、言葉の力は侮れないと思った。
最初はばかばかしいと思っていても、合掌して声に出してみると、物事にとりかかるまえにスタンスが決まる。

スジが一本通り、しっかり腹が決まると、主体性、積極性が増し、ただ苦痛でしかなかった雑務も、そのまま修行法であり鍛錬法であり健康法になりうるのだ。

これは単なるおまじないではなく、潜在意識を開発し、理にかなった自己コントロール法だといえる。

なんとなく、スタンスが決まらず、これといった信念もなく、漫然と物事を行う。

これほどつまらなく自他共に非生産的な生き方はない。

人間が人間らしく最高度の輝きを増す瞬間は、人間としての道を歩むという気概を持ち、常に前を向いて進むときなのだろうと思う。

戦後、伝統的な価値観が失われ、外来の価値観に染まった日本。

ここに来てなんだか足元が心細くなって、生きる力を失いかけているのが現代人なのかもしれない。

先人の叡智を踏襲しつつ、現代にふさわしい道があるにちがいない。

高度な文明を経て帰る場所は、修飾を排したより本質的な人としての道なのかもしれない。

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2010 6/14 (月曜日)

只見でただみてきました。

こんにちは、こはりです。

世界的にも貴重なブナの原生林に囲まれる福島の只見で瞑想を学んできました。

その瞑想はインドのジャイナ教で培われた「プレクシャディヤーナ」と呼ばれるものです。

プレクシャとは、観ること、注意深く知覚すること、という意味です。

好き嫌いとか善悪を超えて観ることに一定時間集注する瞑想法です。

そもそもジャイナ教といってどんなイメージをもたれているでしょうか。

白装束にマスク、ほうきで道の虫を払いながら歩く姿でしょうか。

我々日本人からするととても奇異な姿に見えます。

しかし、よくよく考えてみれば、徹底的に実践を貫いている宗教と言えるのです。

言葉だけが先行したり、頭でっかちになったりして、とかく実践が伴わないのは普段の生活から身にしみていることですが、世の中にはこれほどまでに厳格で忠実な人々がいるということを知り、そこから学ぶことも大切なことではないかと思います。

ジャイナ教徒はアヒンサー(非暴力・不殺生)やアパリグラハ(無執着・無所有)アーネーカーンタ(不定主義)などの戒律を徹底的に実践しています。

そして、過去や未来にとらわれない純粋な現実をつぶさに知覚する瞑想法を通して、たぐいまれな直感力を養い真理を悟っていきます。

仏教の開祖シャカムニブッダが悟った方法とされている瞑想法にヴィパッサナがありますが、ブッダと同時期にジャイナ教の開祖マハヴィーラはプレクシャディヤーナで悟りを開いたとされています。

いわばインドにおける二大瞑想法と呼べるものです。

たしかに瞑想法は宗教的な要素の強いものですが、宗教的なドグマではないので、今この日本でも全く通用しうるテクニックでもあります。

瞑想の究極の目的は、魂の究極の目的=シャンティ(心の平安→世界平和)仏教では涅槃(ニルヴァーナ)と表現されるものですが、副次的な効果として血液の循環が良くなったり、ホルモンのバランスが回復したり、脳内ホルモンの分泌が促されたりすることが認められています。

実際、プレクシャディヤーナは、再興の過程でジャイナ教僧侶によって解剖学的、生理学的な検討がなされ、今でも研究が続けられているようです。

つまり、神秘主義に陥ることなく、きわめて理性的に古代の叡智と現代科学の融合がなされているのです。

古くて新しいこの瞑想法。

心を純粋にし、常に平静を維持することが、めまぐるしい現代社会だからこそ必要なことではないでしょうか。

今の生きづらさ、不健康の原因が、自分自身にあるということ。

ストレスや毒をため込まない心身を培う方法として、実践していきたいものです。

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2010 5/28 (金曜日)

道なかばに立ちて

こんにちは、こはりです。

僕には幸いにも青春時代に、全身全霊で打ち込める「道」がありました。

合気道です。

肉体と精神を横断するそれは、深い思索を求められました。

今こうしてこの世界の末席を汚すのも、考えてみれば、求道の延長に位置しているわけです。

投げつ投げられつ行われる稽古は、ただひたすらに心を込めて繰り返されます。
試合のない合気道は、お互いを活かし合うことに専念し、今この瞬間を二人にとって最高の時間を創り上げようとする気概があります。

そうした愛のエネルギー、合気がほとばしる稽古は、開祖植芝盛平大先生曰く「稽古は愉快に実施するを要す」

もはや殺伐とした旧来の闘争術を超越した、生命が喜ぶ“楽しさ”があります。
経験した者にしかわからないもので、なんとも筆舌に尽くしがたいものでもありますが。

中でも合宿での体験が、僕のその後の志向を決定付けました。

1週間の日程で、午前と午後、夜間にそれぞれ2時間の稽古があります。
三度の規則正しい食事があり、下級生であれば道場の掃除から食事の配膳、洗濯、風呂の用意など休むまもなく動き回ります。

死んだように眠り、また次の朝が来る。

早朝マラソンに出て、朝食にありつく、午前の稽古が始まる。
息も絶え絶え全力を出し切る汗だくの稽古です。

そんな一週間は日に日に衰弱していくかといえば、その逆が起きてくるのです。

完全な空腹の後の食事のおいしいこと、くまなく消化吸収された残滓は程よい固さとボリュームをもって、なんのためらいもなく気持ちよく出ていきました。

その一週間には完全な消化吸収、完全なエネルギー消費、完全な呼吸、完全な睡眠がありました。
体力がみなぎり、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。

「今を生きる」人間が最高度にその真価を発揮するのです。

純粋な向上心が結晶化したような時間、まばゆい光を放つ場所でした。

全日程を終え、帰りのバスの中でいつも思うことは、こんな生活がずっと続けば、どれだけ健康に、そして超人的になるだろうかと。
次第に増えていくビルのネオンを車窓から眺めながら、俗な娑婆に帰ってしまうことのもったいなさを感じていました。

とはいっても娑婆に戻れば人並みにジャンクフードを食べ、煩悩多きキャンパスライフを少なからず謳歌していたわけですが…

しかしながら、人生のモラトリアム期に俗と聖を見渡せる場所に立っていたことが、その後の人生を形作る要素になっていることは間違いないでしょう。

「道」の素晴らしさを知る者として、それを伝えていきたい。

現在はその形を模索する日々です。

未だ道なかば、前進あるのみ

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2010 5/24 (月曜日)

デトックス再考

こんにちは、こはりです。

「デトックス」西洋的な概念としてのそれは、外部から入ってくるネガティブなもの、例えば毒素が体内に蓄積することを良しとせず、外部に排出していくプロセスを言います。

現在のこの自分の体は悪いものに汚染されているとする身体観です。

そこには必然的に自己嫌悪が潜在します。

一方で伝統的な東洋の身体観には虚実理論というものがあります。

俗に言う「コリ」は、ある一部分に気(エネルギー)が集中することにより起こると考えます。

何か行動を起こそうとするとき、その方向に向けて気持ちが向かいます。

これ自体は当然のことで病的状態ではありません。

しかし、この集まった気持ちが、そこにあり続けることに問題があるわけです。

心の執着によって、その気持ちはある部分に偏り、滞り、充満し、固定化してきます。

これがコリです。心身ともに凝り固まることです。

東洋医学的な理想状態とは、とらわれを手放して、フレキシブルに循環していくことです。

どこか一部に偏ることなく全身にくまなく行き渡る状態です。

心身一如、心と体は分かちがたく結びついているとする東洋医学では、肉体的な治療に終始せず、おのずと究極的には心のありよう、心身の解脱、さとりの方向が示されていくわけです。

前述の通り西洋的なデトックスには、外部に悪い物が想定されます。

重金属と言ったり、化学物質と言ったりします。

それが実際どれほど人体に影響するかは医学界でも諸説様々ですが、通底するスタンスとしては、外部に仮想敵をつくることで、モチベーションが強化され方法が明確化します。

意図的に排泄していくことになります。

一方で東洋的な観点では、絶対的な悪もなければ、絶対的な善もなく、一時的な状態がそこにあるだけです。
そしてエネルギーの善用によって副次的にデトックスが起こりえます。

自然体、つまり良いものを完全に吸収し悪いものはすべて出し切れる身体を作り上げることに専心するからです。

意図して排泄に特化しなくても、体に備わった力が顕在化すれば必要なことが行われるわけです。

もっと言えば「清濁併せ呑む」のことわざ通り、それが毒になるか薬になるか、短絡的、人為的に決められるものではありません。

商業的に規定することはあっても、それは商業戦略でしかありません。

いまだ未知なる人間の体という関数が考慮されずに、毒だと決め付けることは生命に敬意を持つほどに早計と言わざるを得ないでしょう。

毒を薬に変えてしまう可能性すら生命はもっていてもいいはずです。

振り返ってみても、不幸としか言いようのなかった過去の出来事が、人生の糧になっていることが往々にしてあるものです。

同様に無菌状態であることが人体の抵抗力を弱めてしまうということに想像力が働いていいわけです。

いわんや生命に全幅の信頼を置く、これが東洋的な身体観だと考えます。

また東洋的な立場で違和感を抱くのは、出せば済んでしまうのかということと、出したものはどうなるのかということです。

不摂生をしても、出してしまえばそれで完結してしまい、自己を省みる機会を得られないこともあるでしょう。

つまり免罪符的な発想です。

安易な免罪符発行は結局また同じ過ちを繰り返すことにつながるでしょう。

一時しのぎでしかなく、根本的な解決をみません。

また、けがらわしい悪とみなしたものを外部に排出していくことに背徳感がありはしないかということです。

言うならば「産業廃棄物」の行く末を案じることができるでしょうか。

生態系をつぶさに観察すれば、食物連鎖で共生しています。

排泄物も微生物の栄養となり、植物を育みます。

人類が地球上に生きていく上で享受した恩恵を返すことは、生命体として最低限のルールです。

ところが、自分さえ良ければ汚物を排出して他者をまたは環境を汚してもいいという発想と容易に結びつくデトックス概念は、西洋近代的な個人主義に由来しているとみることもできますが、持続可能性を求めていけば、個人とそれを取り巻く環境をも包含した視座で個人の健康も論じていかなければならないでしょう。

善と悪の二元論はとてもわかりやすく、訴求力があります。

具体的な方法が示しやすく、精力を傾注しやすい特徴があります。

一方で、自分の内部に重きを置くことで、方法も結果も目に見えづらくなります。

しかし、大切なものは目に見えないものが多いということも経験から知るところです。

持続可能な本当の健康観へ。

自然と調和、共生してきた日本人の感性はここにきて発揮されるべきでしょう。

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