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2010 5/18 (火曜日)

息づくミソギ願望

こんにちは、こはりです。

葬式から帰ってくると塩をまく。

宗教心が薄れつつある昨今でも見かける光景だ。

もともと仏教においては死をケガレたものとみなしていないため、元来そうした風習はない。

しかし、日本に葬式仏教が定着していく過程で土着の神道的精神が混成してきたのだろう。

そこには日本人に脈々と息づく禊(ミソギ)祓(ハラエ)観念を看取できる。

宗教的な用語や観念を持ち出すまでもなく、もっと単純で素朴な感情として息づいていると言ってもいいかもしれない。

それは昨今流行する「デトックス」という言葉がここまで深く浸透した土壌をなすものだろう。

子どもから手が離れた親たちが、老後こぞってお遍路にでかけたりするのも、若い人がこぞってパワースポットや、サンクチュアリをもてはやすのも、社会に生きている中でまみれた欲や執着をきれいにそぎ落とし、心機一転、すがすがしくこざっぱり生きたいという願望によるものだろう。

禊でいう「穢れ(けがれ)」とは、単に「汚れ」だけではなく、古来は、生気が枯れること=「気涸れ(けがれ)」を意味していた。

気が枯れれば生命力が衰えてくる。

そうならないために生気に満ちた自然と一体化し、気を充ちさせ再生させる。

特に水に浄化の力を見出し、川や海で心身のケガレを洗い流す行法が一般的だ。

インドの沐浴とも通じるものがある。

神話にさかのぼれば、イザナギノミコトが黄泉の国から戻ってきた時に、その穢れを、海に入り祓い流されたことに禊の由来がある。

神社参拝の前に手水舎で手や口をすすぐ風習はその略式と見られる。

力士が土俵に塩をまくのも、家や店の玄関先に盛り塩をするのも、海のエッセンスである塩の力によっている。

いずれにしろ「水に流す」そんな日本の共同体の寛容さが、和をもって尊しとなす高い精神性を保障していたように思う。

昨今の自殺者の増加はそんな古き良き日本の寛容さが失われつつある兆候だろうか。

「デトックス」願望には、単なる生理的な毒素排出を超えて、そんな国民性、精神性に根ざした、禊=身体の穢れの浄化、祓=精神の穢れの浄化の願望がありはしないか。

先が見えない時代だからこそ、心身を統一した本当のやすらぎが求められている。

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2010 5/16 (日曜日)

「生を全うする」ということ

こんにちは、こはりです。
 
病気になってはじめて自分の身体があったことに気づく。

健康であると見失いがちな、この我が身のありがたさ。

つつがなく過ぎていく日々のなんと尊いことか。

症状に一喜一憂させられることが多い。

悪化と思われる経過をたどると、この身体が何者かに侵略されていくような不気味さと恐怖感にさいなまれる。

いつまで続くのだろう?
どこまでひどくなるのだろう?

こうしたネガティブな感情は心身相関の観点から言っても、免疫学的な見地から言っても、有益でないことは最近とみに示唆されている。

理屈ではわかっていても、いざ自分の身に起きたとき、理性的でいられる人はどのくらいいるだろうか。

症状=悪

不快と自覚されるものに対しては当然の反応といえよう。

この自縄自縛の呪縛から解き放たれんとして、掲げられた先人の言葉がある。

「症状即療法」

生命の営みに対して全幅の信頼を置かなければ発せられない言葉だ。

そこに希望はあっても絶望はない。

そもそも生命というものは「生きるエネルギー」そのものといってもいいのではないだろうか。

最後の一滴の枯渇するまで、それは「生き延びようとする力」である。

自殺は人間の所業であって生命の意思ではない。

細胞レベルでのアポトーシスも、より良い生を前提として行われるものだ。

症状によって端的に表される生命のゆらぎ。

それはより良い生のために企図される自然的にして建設的な営みではないだろうかと。

物質至上主義に堕せば、それはニヒリズム以外の何物でもないかもしれない。

しかし、人間には気高い精神がある。

まったく波風の立たない水面に躍動感を見出せないように、そこに生の喜びを感得できるだろうか。

寄せては返す波のリズムがあってこそ生命のダイナミズムを、そしてドラスティックな人生の醍醐味を味わうことができるのではないか。

一度きりの人生、不安、恐怖、悲壮感のうちに生きるか、喜び、希望、充実感のうちに生きるか。

主役は他でもない自分自身である。

見る者を飽きさせる平板なドラマより、拍手喝采の感動巨編を演じきりたい。

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2010 5/10 (月曜日)

逆転の発想

こんにちは、こはりです。

ヨガでもっとも格式の高いとされるポーズとして、逆立ち(シルシアーサナ)があります。

インドのガンジーやネルー首相も愛好していたそうです。

地球には重力があるため、老廃物は下半身に溜まり、力なく弱った内臓は下に垂れ下がっていきます。

内臓下垂は特に最下部の骨盤内の臓器を圧迫しうっ血させます。

子宮や卵巣です。

よって婦人科系の失調は内臓下垂と不可分のように思います。

内臓が正常な位置を保つ力を失う素因があります。

糖反射と呼ばれるものです。

砂糖を摂取すると、その数十秒後に胃腸の働きがぴたっと止まってしまう現象のことです。

砂糖が細胞を緩慢にさせ、ゆるみ、たるませる証左といえましょう。

続けて水分を摂取すれば、ゆるんだ胃をさらにたるませる原因になります。

ケーキを食べながらコーヒーを飲む、あまりにもあたりまえの光景ですが、内臓の観点に立てば、いかに不自然な状況を強いられていたかと思い至るのです。

そうした慢性的な食習慣から内臓下垂を呈する人が多くなっているでしょう。

食生活の是正に加え、腰腹力の強化、そして内臓体操ともいえる逆立ちを加えることで万全の内臓下垂対策になるのではないでしょうか。

また逆立ちは脳の血行を促進し神経調整、疲労回復の効果が期待されます。

頭痛、不眠症、消化不良、喘息、肝、脾、腎の疾患、目耳鼻の障害、生殖器異常、神経興奮、肩こり、腹痛、腰痛などに悩む方は実践してみるといいかもしれません。

しかし、やろうと思ってもすぐにできない、熟練を要するのが「ポーズの王様」たるゆえんです。
高度な身体操作を必要とされるため、ある程度の身体の柔軟性と事前のウォーミングアップが必要になります。
また先を急がず少しずつ練習を積み重ねていくことで、不意の転倒を防止できるでしょう。

まずは壁を背に安全な状況で、恐怖心を取り除いていくことからはじめるといいと思います。

ヨガには積極的に身体を開発し、自分の秘められた可能性に気づいていく意義もあります。

ある程度の負荷を自分に与え、それを乗り越えていく適応性を身に着けていくことは、生活万般におけるストレスマネジメントにもつながってくるわけです。

外側からのストレスに対し、いかにそれを解釈し、受容するか。

ヨガによって培われる高度な適応性は、悪しきストレスを悪しきストレスと受け取らず、ゆったりとした呼吸のまま平静な心境で全肯定全活用していくことです。

ヨガをいたずらに苦行とせず、常に日常生活にフィードバックできる方法論として、単なる健康法を超えて実践し続けていきたいものです。

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2010 5/7 (金曜日)

未来の医療

こんにちは、こはりです。

休日を利用して日帰り温泉に行ってきました。

冷えをとることが健康の秘訣、否、健康法の王道といっても過言ではないでしょう。
西洋医学ではほとんどかえりみられない「冷え」という概念。

東洋医学では病気以前の不定愁訴「未病」が重要視されます。
半身浴なら30分から1時間はじっくりつかりたいところ。

そこは源泉かけ流し、肌にまとわりつくような泉質もさることながら、構成成分では表しきれない大地からのエネルギーもいただけたように思います。

先日読んだ免疫学の権威安保徹先生の本には、身体全体の総合力で治すスパの提言がされていました。

『これまでのような薬などに頼る医療ではなく、身体全体からみた総合力で治すスパ・温泉保養施設の養生が、未来の医療を担うと考えています。(中略)身体を温めるさまざまな生活指導が大切です。いちばんいいのは筋肉を動かして発熱させる方法ですから、体操やヨガ、太極拳などの施設の設置と、指導者の役割が大きくなってきます。(中略)いってみれば、昔ながらの湯治ですが、温泉に入るだけでなく、精神的にも肉体的にも癒す環境のなかで、長期間逗留して日常生活から離れて養生しながら、健康を回復する保養施設です。』

まったく同感です。
世界的に注目を集める医学博士からの提言が、きわめてシンプルであるということ。
西洋医学と東洋医学を超克する本質を突いているように思います。

医療の王道にして最先端であるとの自負をもって、今日も高原館でゲストを迎えさせていただきます。

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2010 4/29 (木曜日)

「わからない」生き方

こんにちは、こはりです。

「わかった、わかった」とよく人は言います。

「わかる」ことは良いことだ、誇らしいことだと思っています。

漢字で書けば「分かる」「解かる」「判る」です。
いずれも、その物事を“分けて”分解して、細分化していくことを表しています。
それによって、ある部分はくっきりと見ることができるでしょう。
しかし、それがすべてを、または真意をつかんでいるわけでないということに気づいておく必要があるのではないでしょうか。
つまり「わかった」=「答えを得た」ということでは必ずしもないということです。

例えば、人間の体の場合、解剖して体を切り開き心臓や肝臓などの臓器を取り出し、さらに切り刻んで分解し、顕微鏡レベルの細部を調べていったとしても、それが「いのち」の真意を把握できたとは限らないということです。

「わかることはいいことだ」
「わかって当然だ」

もっともだと思っていた、そうした近代的な思考が、必然的に「わからない」自分を暗黙のうちに否定し、他者を否定し、周囲に広がる世界や物事、ひいては人生をも否定する価値観に結びつかないとも限らないわけです。

現代社会にはびこる「生きづらさ」の淵源が、もしかしたらそこにあるかもしれません。

「わからない」と素直に言える人こそが、本当の意味で教養のある賢い人なのだと思います。

目新しいことではなく「わからない」「分けない」生き方こそ、東洋の叡智、全体的、ホリスティックな価値観ではないでしょうか。

かの有名な武術家、宮本武蔵は「見」の目ではなく「観」の目で見ることを重要視しました。

一点に目を凝らさず、全体をとらえるあり方。

意識的に「見る」と、自分では見えているように思うのですが、実際のところ、部分にとらわれるあまり、大部分が見えていないものです。

カメラでも、ある部分にピントを合わせると、そのほかの部分がボヤけてしまいます。

これは武術の世界では命取りです。

現代を生きる我々にとっても、「いくさ」ともいえる人生の局面において、より全体的な「観」の視点を得ることは大切なことではないでしょうか。
一点にこだわれば、偏り固定化し膠着し凝り固まってきます。体も心もです。

広く柔軟で多角的な視点に立てば、難局をチャンスに変えることだって十分にできるはずです。

現在、病気を抱えている方もいると思います。

「健康」と「病気」をふたつに分けてしまったら、病気であることに心がとらわれてしまったら、それはただの不幸でしかなく、苦しくネガティブな出来事以外の何物でもなくなってしまいます。

しかし「いのち」のありようを真摯に、そして「観」の目で眺めたとき、白か黒かという二元論を超えて、グレーも含めたその中でゆらいでいるものが「いのち」そのものではないでしょうか。

つまり「健康」と「病気」というものが、それぞれ単独で存在しているわけではなく、グラデーションとして存在して、両者があってバランスをとっている存在ともいえます。

今、苦痛でしかない症状も、大きな「ゆらぎ」の中でとらえれば、なんらかの原因で偏り、ゆがんだバランスを修正しようとする「いのち」の自然な働きととらえることができます。

「風邪をひいた」
「痛くて動かせない」

その時は動かさず休んだほうがいいわけです。

「体を動かすと気持ちいい」

それなら、どんどん動かしていけばいいわけです。

それだけのことです。

「この病気をなんとしてでも治したい」「症状を取り除きたい」「悪いものを取り除きたい」

これらは「いのち」の視点からすれば、とても狭く短絡的で、必要なゆらぎを無理やり止めてしまうことになりかねません。

また西洋医学的に「○○病」と診断されたからといって、わかったつもりになってはいけないということでもあります。

「ガン」と診断されると、

「もうだめだ」「治らない」「死んでしまう」

と思うのが一般的でしょう。

壮絶な闘病生活の末に死んでいくドキュメンタリーやドラマ、小説などのイメージが知らず知らずのうちに植えつけられています。
また「わかっている」と思っている医師が、「治らない病気」と「わかっている」ことが問題です。

そんな医師に宣告され対話していれば、「治らない病気」という固定観念が植えつけられ、本当に治らなくなってしまうかもしれません。

ガンを宣告されて、みるみる悲観的になって衰弱していく人もいます。

「わかった」ことによる弊害です。

「ガン」と診断されても、「分ければ」ガンですが、「分けなければ」より建設的に自分の「いのち」と向き合えるはずです。

今の自分のからだが決してみじめなものでもなく、弱々しいものでもなく、排他すべきものでもなく、以前と変わらない「いのち」がそこにあるだけです。

その声に耳を傾ければ、おのずとこれから何をすべきか、いかにして生きるべきか、答えが出てくるはずです。

そうして前を向いて歩ければ、生きる希望や、いきいきとしたいのちが感じられてきます。

もっと言えば、人生を「観」の目で眺めれば、オギャーと生まれた瞬間から、人はみな平等に死に向かって突き進んでいる存在です。

遅かれ早かれいずれお迎えが来る。

「それならジタバタしてもしょうがない」

手放せば楽になるものです。
フッと肩の荷が下りて気持ちが軽くなったら、かえって自然治癒力が働いて元気に長生きするかもしれません。

実際、余命半年と宣告された人が、あきらめて余生を自分の好きなことをして生きようと決意し、趣味に没頭したら3年も5年も生き延びたということがあります。

人生「わからない」ものです。

白か黒か、善か悪か、そんな世知辛い世の中であるなら、なおさら眉間にしわを寄せて「わかろう」としなくてもいい、笑って「わからない~」と言えることの素晴らしさをもう一度かみしめたいものです。

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