2010 11/29 (月曜日)

かぼちゃのムースのレシピ

かおりです。

今日も良いお天気

空気はひんやりしていますが、陽にあたるとぽかぽかしてきます。

今日はかぼちゃのムースをお出ししました。

目がさめるようなきれいな黄色をしています。

食べるとかぼちゃの甘みがふんわり口のなかに広がって、なんとも幸せな気分

になれますよ???

かぼちゃのムース

かぼムース.JPG

<材料>(小さなココット皿8個分)

かぼちゃ…200グラム(ゆでて皮をむいた状態です。
            ゆでる前(皮付き)だと350グラムくらいです)

豆乳…250cc

コーボン…大さじ1~2(かぼちゃの甘みをみながら調整します。
            コーボンははちみつやメープルシロップで代用
            できます。)

ゼラチン…1,5本(1本5グラムです)

<作り方>
1.かぼちゃをやわらかくなるまでゆで、皮をむく。

2、豆乳と1を入れてミキサーにかける。

3、コーボンで甘みをつけ、とかしたゼラチンを入れてよく混ぜて
 器に入れて冷蔵庫で冷やす。

お出しする前に、てんさい糖で作ったシロップをかけています。

てんさい糖:水=2:1の割合で、鍋に入れてとろみがつくまで煮立たせます

簡単にメープルシロップやはちみつでもおいしそうです

手作りのお菓子を食べると、工場で作られたお菓子にはない「ほわ~っとした幸せ」を

感じます??

作っている人のうきうき感や、手から伝わる人のぬくもりがそう感じさせているのでしょうか

毎日がんばっている自分へのごほうび、また、ご家族やお知り合いのために愛情こもった

かぼちゃのムースをぜひ作ってみてくださいね?

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2010 11/26 (金曜日)

富士を望んで

こんにちは、こはりです。

思い立って白隠禅師ゆかりの松蔭寺に行ってきた。

沼津の二つ先の小さな駅を降りて、歩いて10分くらいだろうか。

白隠さんと親しみを込めて呼ばれるお坊さんは、日本の臨済禅の中興の祖といわれ、仏法以外にも書画や詩文にも才能を遺憾なく発揮したとされている。

まぎれもないカリスマである。

当時、師に教えを乞うため参集した人々は数百人。

要請あって全国にも説法してまわったとされている。

志ある人々の精神的支柱として存在していた白隠さん。

片田舎ながら一大拠点として存在していた松蔭寺。

僕がそこに訪れた理由。

それは白隠さんが、日本の健康法、養生法のカリスマとしても君臨しているからだ。

当時のあらゆる医業で治せなかった自身の禅病を、主に内観法と軟酥の法で治した経験を、庶民に向けた養生法として体系化した。

今なお語り継がれるそれらの方法は、現在の医学に照らしても理に適い、また予防医学的にも、さらにその先進性を見直されていくだろう。

その白隠さんの活躍した本拠地を、一度は見てみたいという好奇心から訪れたというわけだ。

何の変哲もない小さな寺であった。

皮肉にも並び建つクリニックが目新しいビルで圧倒していた。

地元にも今や威光は薄れ、根付いていないことが見て取れた。

そこで得たインスピレーション。

「場所には意味がない」

「教えの内容こそが大切である」

「真理は受け継がれる」

「カリスマは一代限りである」

カリスマや聖人が、かつて活躍していた場所は往々にして聖域化され崇拝の対象とされる。

そして、その権威にすがり、盲目的にありがたがる人も出てくる。

まったく意味がない。

白隠さんも、きっとそれをまったく望んでいないのだろうと思う。

沼津の至近、三島には、かつて沖ヨガの本拠地があった。

最盛期は相当の活気を呈していたと推察される。

今は道場としてのかつての活動はしていないようだ。

カリスマ亡き後、言い方は悪いかもしれないが、名所旧跡としてあるだけで、その内実は当時とイコールではない。

寺はその当時の様式を残しているが、それ以上の価値はないだろう。

歴史を経た文化財としての価値はあっても、見方を変えればガラクタにもなりうる。

大事なのは物質ではなく、色褪せない教えであり、不変の真理だ。

その場で、教えを忠実に継承している人もあるだろう。

尊いと思う。

一方で、あらゆる道、流派の始祖となる人、カリスマとなる人は、決して従来の道を完全に踏襲しているわけではない。

歴史を見れば明らか、自らの才能で咀嚼、吸収し、そこにオリジナルの要素が加わり、再編または昇華させるところにカリスマたる所以がある。

つまり教えは、黙っていても資質のある人の琴線に触れ、場所を離れても、形を変えても、受け継がれるということだ。

もっと言えば、波長が同調した者だけが、その教えに触れることができるということでもある。

考えてみればあたりまえのことだ。

その土地に産まれたからといって、その影響を受けるとも限らない。

ゆえに資質をそなえ、教えに触れることが大切であり、真理を求め、それを実践することがもっと大切になる。

そして、そこから権威を離れ、自らの内から産まれ出たものに忠実であること。

「信じるな、疑うな、確かめよ」

改めて沖先生の教えが心に響いた。

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2010 11/22 (月曜日)

きんぴらサラダのレシピ

かおりです。

今月から始まった「酵素断食コース」

私も見習って、朝食は酵素を意識したものにしています。

りんごやみかん、柿などの果物やお味噌汁、納豆、お漬物などです

忙しい朝に手軽に食べられるし、食べものそれ自体に酵素が含まれているので

消化にかける体の負担が軽くなります。

お昼前におなかがすいて、お昼ごはんがいつもより何倍もおいしく感じられます?

さて、今回は「きんぴらサラダ」の作り方をご紹介します。

れんこんやごぼうなどの根菜をきんぴらにして、大根と水菜を和えて

いただきます。

シャキシャキの食感で、食べごたえ充分のサラダです。

きんぴらサラダ(3人分)

きんぴらさらだ.JPG

<材料>
・れんこん…100グラム(うすいいちょう切り)

・ごぼう…1/2本(千切り)

・人参…1/4本(千切り)

・しめじ…1/2パック(ほぐしておく)

・大根…100グラム(千切り)

・水菜…1束(5cmに切る)

~合わせ調味料~

しょうゆ、酒、みりん…各大さじ1.5

水…大さじ4

<作り方>

1、フライパンに油をひき、れんこん、ごぼう、人参、しめじを炒める。

2、しんなりしたら、合わせ調味料を入れて弱火にしてフタをする。

3、3分たったらフタをとり、火を強めて水気がとぶまで炒める。

4、ボールに入れて粗熱をとり、大根と水菜を混ぜてできあがり!

食べものにふくまれる酵素の助けをかりるのも良いですが、よくかんで

いただくことによって、だ液に含まれる消化酵素「アミラーゼ」も

消化に大活躍してくれます。

ゆっくりとお食事を味わい楽しむことは、精神面でも身体面でも良いこと

なんですね

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2010 11/22

かぼちゃの種を食べたのは?

かおりです。

11月のデザートは「かぼちゃのムース」

かぼちゃの種を飾ろうと思い、ザルに入れて干しておきました。

しかし次の日、ザルがひっくり返されて食べかけの種が散乱しているのを発見?a

見たところ、多分トリがつついたのではないかと思われます??

1.JPG

そして、よく見ると…

2.JPG

アリが種を食べています?
この時期にアリを見るのも珍しいし、かぼちゃの種を食べる光景も初めてみました。

いつもなら捨ててしまうかぼちゃの種。

ただ外に置いておくだけで、トリとアリの食べものとして、そして最後には土になる、

本来、無駄がない自然のサイクルを人間が壊してしまっているんだなと気づかされた

一件でした。

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2010 11/19 (金曜日)

愛なき身体

こんにちは、こはりです。

ごくたまにグリーン車に乗ることがある。

車内販売があったり、リクライニングを倒して、ゆったりと座ることができる。

夜は背広姿のサラリーマンが多い。

どちらかと言えば中高年、年輩の方が過半数。
気兼ねなく一杯ひかっけられるのもグリーン車ならではだ。

そんな中高年のサラリーマンが降りた後の座席を見ると、大概、飲み終わったペットボトルがそのまま置かれていたり、
ビニール袋が足元に捨ててあったり、窓際に鼻をかんだ後のような、まるまったちり紙がおいてあったりする。
いわずもがな、そんな席は例外なくリクライニングが倒れたままだ。

「立つ鳥後を濁さず」という言葉がある。

さりげない配慮、日本人らしい美徳だと思うのだが、実際は濁しておいて知らんふりだ。

周囲の人達に迷惑をかけないように、次に席につく人が快適であるように、という配慮は
空間的、時間的に広く見渡す想像力が働かされる。

よっぽどイマドキの若者の方が後始末がいい。

場の空気を読む力がまだひからびていないからだろうか。

こうした力は身体性に直結する問題だと思っている。

身心一如、見るからに体が凝り固まり、頑迷固陋な精神性をにじませている。

いよいよ繊細な感覚は失われ、感度は鈍くなるばかりだ。

こまやかな神経は、力みのないゆるんだ身体に宿る。

齢を重ね、悲喜こもごも人生経験を積み、円熟し、達観していてもいい年頃のよ
うに思えるのだが、見た目の貫禄に対し、精神的な貧弱さを見せつけられるのは、
人生の後輩として忍びない。

かくいう僕にも経験がある。

学生時代、バイトを終えていつもの帰り道。

年末とあってせわしなく人通りは多い。

このところ急激に冷え込み頬に当たる風は厳しかったが、長期の休暇を控えていたこともあっていつになく気持ちよく歩いていた。

三越を過ぎると日本橋がある。

江戸時代には江戸の象徴的存在として親しまれてきた日本橋も今は見る影もない。

下には悪臭を放つドブ川が走り、堪らず天を仰いでも轟音を立てる首都高が踏みつけるように走っている。

まさに利便性、機能性、経済効率だけの現代日本を象徴しているかのようである。

情緒や叙情性など微塵もない。

そんなことを考えながら歩く。

そろそろ高島屋が見えてくる。

石畳の道の先、何やら白いものが見える。

だんだんと近づく。

マフラーだ。

道の真ん中である。

踏まれて汚れてしまうだろう…

すると前から60代後半であろうか、女性がサッとそれを拾い上げ、はたき、路傍の道標に掛けた。

その一連の所作になんだか見とれてしまっていた。

「なつかしい」

幼い頃、曾祖母に手を引かれ歩いた時に見ていた光景であった。

その時分でも、もういい年齢で膝や腰が悪かったが、腰をまげサッと拾い上げて、自分の物のように慈しみほこりを払う。

そして、そっと路傍に掛けておく。

身体に染み込んだ動きとでも言おうか。

美しい所作である。

ところが、その時の自分はといえば、ポケットに突っ込んだ手を出すことができなかった。

いつから落ちている物は汚いとか、危ないと思うようになってしまったのだろうか。

社会情勢を言い訳にするのは簡単である。

モラルや道徳を持ち出すほどのものでもない。

考えてからでは遅いのだ。

自らの身体性、そして五感の鈍りを痛烈に感じざるを得ない。

現代の病理が着実に我が身体を巣喰っているのだ。

身体はありのままの自分を映す。

失われたものは大きい。

だからこそ身体に素直に耳を傾けよう。

大好きだったひいばあちゃんにそっと手を合わせた。

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    2泊3日 32,340円

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    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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