2010 2/11 (木曜日)

健康論

こんにちは、こはりです。

食事療法の代名詞的存在である玄米。

マズイという先入観も、どの食品に比してもずば抜けたものがあります。

「自分は実践したいんだけど家族が反対して」なんて言葉をよく聞きます。

たしかに病気治療を念頭に置いた場合、厳格な玄米菜食の効果は、悪食癖極まればこそ絶大なものがあるでしょう。

一方で、生理がこなくなった、ますます症状が悪化した、どんどん痩せていく、などの不安要素もよく聞かれます。

それを治るための反応(瞑眩反応)とみるか、身体の拒絶反応とみるかは専門家の診断力にかかっているといえますが、厳格な食事療法は期間限定で行うべきと個人的には考えています。

食事療法といえども体質、その時の体調に合わせて臨機応変に変化していくものと思うからです。

そして食事療法一辺倒に偏重することにも懸念を表します。

食事とともに睡眠、運動、呼吸はエネルギー代謝の観点からも不可分です。

どんなに良い食物であっても受け手つまり内蔵機能が健全でなければ全く意味がありません。

だからこそ総合的な視点は欠かせないのです。

食事療法も極まれば、修行僧のように眉間にしわを寄せて苦虫を噛み潰すような表情で玄米を何百回とかむようになります。

病気克服のための通過儀礼として、心機一転、形勢大逆転のショック療法としての「行」としての意味合いを持たせるのであれば、それもまた効果ありと言わざるを得ませんが、そこに本人の意志が伴わなかったり、中途でくじけている場合には精神衛生上良くないのはあきらかなことです。

それではどのような食事が理想的であるか。

それは個別の問題なので、短絡的に断言できません。

ただ、ヨガでは同じポーズを続けるとそれ自体が歪みを生むので、いろいろなポーズ、つまりバリエーション豊かな刺激をタイミングよく与えていくことを良しとしています。

食べものも全く同じと考えます。

玄米が良いからといって、それを金科玉条のようにして食べ続けても、そこに信仰にも似た強い信念がある場合は心理的作用を否定できませんが、体はゆがみ、ある部分は鈍化していくのが、身体の法則といえるでしょう。

僕自身は基本的に玄米食肯定派ですが、一週間のうち4~5日にとどめ、そのほかの日は分つき米や雑穀をおりまぜ変化を楽しんでいます。

菜食に関してもほぼ実践していますが、一番大切なことは季節の旬を頂くことと、地域性を重視することだと考えています。
これを「身土不二」と食養の世界では呼んでいますが、身体と風土は切り離せないと考えるのです。
そこには食物をモノや栄養素としてだけ見るのではなく、見えない力、つまり気やエネルギーといった有機的、相互補完的な生命力を認める観点があります。

ただこれも厳密に考えると東京出身の僕がアラスカに移住した場合、アザラシを常食すべしとなりますので熟慮が必要になります。

大まかにいって日本人として、和食が大前提になるでしょう。

その上で、その土地の風習や伝統文化をも楽しむ心の余裕を「身土不二」に見出すのです。

そこには「私は菜食なので」と宴席で頑なに固辞する方々の厳格さはありませんが、自分のことよりもその場を重んじる「和をもって貴しとなす」日本人的な人生の楽しみ方を知る人間であることをあらわしています。

なによりそこには「感謝の心」があると思うのです。

人間はモノとしての体だけでできている存在ではありません。

東洋思想では「身心一如」といいますが、心と体が調和して存在しているとみるのです。

しかも心と体では、心の力の方が強い、7対3くらいに考えてもいいのではないかと思っています。

なぜなら人間はそのほかの生物と明らかに違うことは思考することにあるからです。

そのために高度な文明を築き今日の繁栄があります。

これはまさに人間の心の力、いわば念の威力の為せる業です。

「こうなりたい」という意志は、現実化する力があるようです。

とはいえ「健康になりたい」という強い願いには、逆説的に「私は今病んでいる、弱い存在である」という潜在意識の刷り込みでもあるのです。

ですから「健康になりたい」「病気を治したい」と強く願うほどに、病気である自分を誇張し、場合によっては自分を受け入れられなかったり自分の病気を自分とは全く隔たれた別のもの、つまり敵とみなして駆逐する対象としか見られなくなります。

これでは手術をして切り取る、薬で叩くにとどまり、病気の治癒が生活習慣の改善、つまり生き方にかかっているという人間存在の根源的なところまで思いが及ばなくなる恐れがあります。

ですから「今日も元気に生かせていただきました」の感謝の一念こそが、健康の大原則であると思っています。

僕が常々「治療法が治すのではない自分で治すのだ」と言ってきたのは、他者に頼る依存心こそが潜在意識下における病気の原因ではないかと気付いたからです。

「責任主体は自分」というのは、人間の心の力をどこまでも信頼し、肯定的な結果を引き寄せるのだという希望に根ざしています。

「自業自得」という言葉は、「罰が当たる」ような否定的なイメージがまとわりつきますが、良きにつけ悪しきにつけ、自分で作った原因は相応の結果を引き起こすという自然法則だと思います。

だからこそ、日々営む生活こそが、この一瞬、一瞬の「心持ち」「身持ち」こそが大切なのではないでしょうか。

究極的に言ってしまえば、肉食であれ、白米食であれ、そこに感謝の気持ちがあれば良いという事になります。

感謝して病気になれば、その病気にだって感謝できるというものでしょう。

誰しも遅かれ早かれ必ずお迎えがきます。

「そのとき笑顔でお迎えに応えられるか」そこにすべてが集約されているといっても過言ではないと思うのです。

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2010 2/8 (月曜日)

この胸に真実の花を咲かせよう!

こんにちは、こはりです。

妊娠力向上合宿が無事に終了いたしました。

「来る前は不安があったけど、やっぱり来てよかった」
そんな言葉をゲストの方から聞きました。

とかく知識や観念に押しつぶされて、不安ばかりが募るのが人間というものでしょうか。

だからこそ、「とにかくやってみる」ことが大事なのかもしれません。

実際、体験してみることで、文字通り“身にしみて”“身につく”ことがあるのでしょう。

「治療法が治すのではない、自分が治すんだ」

生活習慣や心の持ち方を変えたいと思ったら、まず実践してみる。

本当に心身が欲し、なおかつ自然の理にかなうものであれば、それは心地よく持続可能であるに違いありません。

ただ軌道に乗せるまでに、ネガティブな感情やこびりついた悪癖が行く手を阻むだけなのです。

責任主体は自分。

とはいえ最先端の高度な治療法を否定するのではありません。

その上で優秀な種をもって、発芽までこぎつけても最終的には肥沃な土壌なくして生育はないと思っているのです。

そして、その土壌こそまぎれもなく自分自身の心であり身体であることに気がつくのです。

今回、妊娠力向上合宿に立ち合せていただいて感じたことは、やすらぎの里が人と人とを結びつけつる場、そして実践の場、足り続けることの重要性と使命感でした。

どんなに科学が進歩しても、やすらぎの里は額に汗する土作りを応援し続けます。

いつしか大輪の花咲く日を夢見て…

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2010 2/1 (月曜日)

「治すこと」よりも大事なこと

こんにちは、こはりです。

身内の死に接し、人には必ずお迎えが来るのだと、当たり前のことを今更ながら痛感する。

真理それは「人は必ず死ぬということ」

そして、その死因となる病気があってこそなのだと、病気に対して抱く嫌悪感がほどかれるのを感じた。

現実をつぶさに観察すれば、病気は単純な悪ではなく、常に人生に寄り添い、内観を促す契機となるものではないだろうか。
瑣末な風邪にしても宿痾とされるがんであっても。

一方で先天的な病気がある。

生まれたときから背負う宿命のようなものだ。

そこには本人の生活習慣は介在しない。

母体の状態が影響することがあっても、本人にとってはまったくあずかり知らぬところだ。
それを業と呼んで、受容するのも方便であろう。

改めて自問する「病気になって哀れだろうか?」

そんな簡単なことではないだろう。

想像力を使っても使いすぎることはない。

その身になった者にしかわからない境涯もある。

人はその耐え難い苦痛から「なんとかしてこの病気を治したい」と願う。

ごく自然な営みにちがいない。

しかし、「病気にかかってしまった」という被害者意識が潜在しているとすれば、その予後を致命的にするようでならない。

無力感と悲観的な精神状態は免疫機構にも影響すると聞く。

神様がいるとして、他者にばかり頼り不平不満ばかりを口にし、自らで何も実践しようとしない者に対して、救いの手を差し伸べるだろうかと。

改めて感じたことは、「病気は治すものではない」ということ。

現実に治らない人がいるのであれば、なおさら安易に治すことにとらわれる必要はないだろうと。

そんなことを言うと仕事柄、職務怠慢、責任放棄と揶揄されかねない。

しかし、現時点での偽らざる心境だ。

治癒があるとすれば、それは治すことを目的として訪れるのではなく、そこから学び人生をより輝かせたその延長上に副産物としてあるにちがいない。

主産物は豊かな人生であって、それでこそ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというものだ。

「治したい」という思いが募るほどに、期待と絶望を同時に孕むことを意味している。

願わくば病気に一喜一憂するのではなく、超然としていたい。

風邪をひき熱を出しただけで弱音を吐く自分が言えたことではないが、自らの臨終につぶやく言葉の備忘録としてでもと書き進めてきた。

「一日一日を丁寧に生きる」

その前提なくしていかなる治療法も健康法もない。

死のリアリティは「生、老、病」を否応なく直視させる。

いたずらにもがいて心を汚すより、とらわれを放って心清らかに死んでいきたいと思った。

「人は生きたように死んでいく」

ならば笑顔でこの世を去ってやろうじゃないか!

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2010 2/1

べジー・ステディー・ゴー

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2010 1/22 (金曜日)

光を観た

こんにちは、こはりです。

休暇をいただき旅に出ておりました。

岡崎、出雲、岡山へ。

愛知県の岡崎には吉村医院という産婦人科があります。
この存在を知ったのは『「幸せなお産」が日本を変える』という一冊の新書でした。

読み進めていくうちに、はからずも涙が頬をつたいました。

『日本人には長く豊かな感性の文化のなかで暮らしてきました。それを失ったのは、たったこの百五十年にすぎません。今ならまだ間に合います。私たちの祖先が育んできた豊穣な感性の世界、自然と神を敬い、宇宙の手にゆだねる真実の世界を取り戻さなければいけません。』

お産という“人間に残された最後の自然”を見続けてきた吉村先生の言葉に魂が揺さぶられるようでした。

この感動が忘れられなくて、いつかは訪れてみたいと思っていたのです。

行ってみると、医院に隣接するかやぶきの小屋で、妊婦さんたちが黙々と薪割りや柱磨きをやっていました。

今まで妊婦というと腫れ物に触るような、どこか安静に穏やかに経過させなければという印象があったように思います。

ところが大きく股を広げ上下にスクワットのような運動を続けているのです。

昔は妊娠するとすすんで豆拾いをしたといわれていますが、これも安産のための古人の智恵だったのでしょう。

吉村先生は現在の難産の原因をビクビク・パクパク・ゴロゴロと表現しています。
つまり、むやみに恐れること、栄養過多、運動不足です。

古屋にいた女性は、みんな笑顔がまぶしく輝いていました。
本当に妊婦なのだろうかと疑ってしまうほどに。

力強い薪割り。

骨盤腔内の血流、股関節の柔軟性とともに、安定した腹圧が出産のためには必要になります。

振り上げたナタを下ろすとき一気にしゃがみこみます。

聞くとこれを300回繰り返すそうです。

男の僕でも音を上げてしまいそうな重労働。

柱磨きも上から下まで四股を踏むようにしてしっかりとしゃがみこみます。

どれだけつらいのだろうと表情を覗き込んでみるのですが、どなたも淡々とこなされているのです。

むしろ凛々しく見えます。

他の誰でもない自分の体に、愛する我が子を宿すのだという強い意志、依存心とは無縁の責任感を肌身で感じることができました。

本当の女性の美しさ、神々しいほどです

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岡崎を後にして、次は出雲へ。

目当ては出雲大社です。

大国主大神を祀っています。

国家的な規模の信仰を集める神社ですが、縁結びの神さまとして有名です。

調べてみると男女関係もさることながら、大きな意味での「ムスビ」を司っている神さまだそうです。

ヨガにも「結ぶ」という意味があります。

何か気づきが得られるかもしれない。

そんな思いで赴きました。

松林を抜けると本殿です。

ちょうど60年に一度の式年遷宮に際して仮本殿となっていました。

残念なようでもあり、この節目に立ち会えた縁に、時代の移り変わりや生まれ変わりといったものを想起し、心機一転、新たな門出を迎えられるように思いました。

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つづいて岡山は高梁市へ。

ここには食養の世界では名の知れた民宿「わら」があります。

「重ね煮」という独特の調理法に定評があり、主宰する船越先生の生き様や考え方に共鳴した人たちが集う場所です。

そこで、はからずも今後につながるようなお話を伺うことができました。

人と人とを結びつける見えない力、ムスビの神さまが微笑んだようでした。

帰り際、カレンダーをいただきました。

生まれ変わり、新たな門出にふさわしいメッセージでした。

1はきものをそろえる
2胸をはる
3笑顔をつくる
4メモをする
5空をみる
6あたたかくする
7新聞、雑誌、TV、ラジオ、パソコンをみない、聴かない
8トイレそうじをする
9捨てる
10神社に行く
11ヒラメキを活かす
12人間以外のモノに声をかける
13元に戻す
14変身アイテムを用意する
15花や草木にふれる
16本を読む
17お財布の中を整理する
18プチ断食をする
19こちらからあいさつをする
20つながる
21あやまる
22ハガキを書く
23話を聴く
24スイーツを分かち合う
25瞑想する
26寄付する
27問いかける
28祈る
29両親に感謝を伝える
30歌い踊る
31作品を残す
32意図を放ち宇宙にオーダーする
33センタリングする

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  • お手軽プラン

    2泊3日 32,340円

  • 基本プラン

    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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