する贅沢から、しない贅沢へ

2010 2/1 (月曜日)

「治すこと」よりも大事なこと

こんにちは、こはりです。

身内の死に接し、人には必ずお迎えが来るのだと、当たり前のことを今更ながら痛感する。

真理それは「人は必ず死ぬということ」

そして、その死因となる病気があってこそなのだと、病気に対して抱く嫌悪感がほどかれるのを感じた。

現実をつぶさに観察すれば、病気は単純な悪ではなく、常に人生に寄り添い、内観を促す契機となるものではないだろうか。
瑣末な風邪にしても宿痾とされるがんであっても。

一方で先天的な病気がある。

生まれたときから背負う宿命のようなものだ。

そこには本人の生活習慣は介在しない。

母体の状態が影響することがあっても、本人にとってはまったくあずかり知らぬところだ。
それを業と呼んで、受容するのも方便であろう。

改めて自問する「病気になって哀れだろうか?」

そんな簡単なことではないだろう。

想像力を使っても使いすぎることはない。

その身になった者にしかわからない境涯もある。

人はその耐え難い苦痛から「なんとかしてこの病気を治したい」と願う。

ごく自然な営みにちがいない。

しかし、「病気にかかってしまった」という被害者意識が潜在しているとすれば、その予後を致命的にするようでならない。

無力感と悲観的な精神状態は免疫機構にも影響すると聞く。

神様がいるとして、他者にばかり頼り不平不満ばかりを口にし、自らで何も実践しようとしない者に対して、救いの手を差し伸べるだろうかと。

改めて感じたことは、「病気は治すものではない」ということ。

現実に治らない人がいるのであれば、なおさら安易に治すことにとらわれる必要はないだろうと。

そんなことを言うと仕事柄、職務怠慢、責任放棄と揶揄されかねない。

しかし、現時点での偽らざる心境だ。

治癒があるとすれば、それは治すことを目的として訪れるのではなく、そこから学び人生をより輝かせたその延長上に副産物としてあるにちがいない。

主産物は豊かな人生であって、それでこそ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというものだ。

「治したい」という思いが募るほどに、期待と絶望を同時に孕むことを意味している。

願わくば病気に一喜一憂するのではなく、超然としていたい。

風邪をひき熱を出しただけで弱音を吐く自分が言えたことではないが、自らの臨終につぶやく言葉の備忘録としてでもと書き進めてきた。

「一日一日を丁寧に生きる」

その前提なくしていかなる治療法も健康法もない。

死のリアリティは「生、老、病」を否応なく直視させる。

いたずらにもがいて心を汚すより、とらわれを放って心清らかに死んでいきたいと思った。

「人は生きたように死んでいく」

ならば笑顔でこの世を去ってやろうじゃないか!

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