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2008 12/15 (月曜日)

おもいたって

おはようございます。わだです。

今日の伊豆は雨上がりのすがすがしい朝です。
修善寺の山々がうっすらと雪化粧しています。

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昨晩、急に思い立って
のこりものでケーキを焼いてみました。

さつまいもとりんごとレーズンの甘煮で
かんたん手抜きケーキのできあがり。

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お酒とみりんと果物とおイモの甘さで仕上げました。

最近はマクロビオティックの
「卵と牛乳をつかわない」お菓子に興味深々です。
お砂糖の代わりに、メープルシロップや甜菜糖を使ったりもします。
我が家には真っ茶色の原始時代の糖のようなものがあります。

どうしても甘いものが食べたいときって
ほんの少しの和菓子・・じゃないんですよね。
ずっしりおもたーいケーキとかチョコレートとか、
とかく洋菓子に目がいってしまいます。

そんなときには、自分で作ってみるのも手かもしれません。
工夫次第でヘルシーにもこってこてにも出来ますよ。
美味しいスイーツは、心への栄養ですね。

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2008 12/12 (金曜日)

おばあちゃんの知恵

こんばんは。わだです。

ご無沙汰してしまいました。

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さいきん頂きものをよくします。
ありがたいことです。

とっても美味しいお野菜やくだものは、
あまったら保存食にしております。

今回は大根のたくあんと、キウイのジャムに挑戦!

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ゆるーく作ったので、フルーツソースにしてもいいかな。
天然酵母のパンもうまくいきました・・が、まだモチっぽいので精進せねば。

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大根はまだ干し途中です。
自家製のとうがらしと、果物の皮で漬け込む予定。うふふ。

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私事ですが、祖母が亡くなりました。
告別式の日がおたんじょう日でした。

もっと料理をならっておけばよかった。

インターネットにレシピ情報はあふれていますが、
あとひと手間、あと少しの味加減がうまくいきません。

あの味を出したいのに!

ひとの生き死にの際の思いを

忘れずに 受け継いでいきたいです。  

いつかまた、おばあちゃんの味の再現にチャレンジします。

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2008 12/9 (火曜日)

「歪み」についての一考察

こんにちは、こはりです。

今日は治療のお話…

「歪み」に対して否定的なニュアンスがあることはまちがいありません。
身体に対して何らかの悪影響や苦痛を及ぼすことも確かでしょう。

だからこそ、その人の姿勢や動きを創り出すものを見極めなければなりません。
そこで自分自身の姿勢や動きについて考えてみました。
そこには何ら意図的なものがないことに気付きます。
無意識のうちに形作られるもの。今までの経験や知識が表れているのかもしれません。
生得的な体格や体質、癖によって規定される部分もあるでしょう。

とすれば、まず身体は完全な左右対称であったり均整のとれたものであるという幻想は捨てた方がいいかもしれません。
自然万物の姿が多様であること、また人格的に完全な人間を見出すのが難しいことが何より証左になりうるのではないでしょうか。

このように目に映る現象を決して他人事にせず自分のこととして真摯に考えれば、他者の姿勢や動きはその人の知識や経験の集積であり、ひいては生き方、生き様の表れであるのではないかという想像力がもっと働いていいはずです。

その認識があれば、それは否定的な要素としての歪みではなくなります。
もっと言えば慈しみ尊重すべきものにもなりうる。

指圧などの東洋医学に立脚する手技の施術者が、からだ全体から症状だけを切り離し、身体を客体として対象化し診断していて、どうして現代医学の代替補完医療に足りうるでしょうか。

物理的に歪みを正したところで、その歪みの原因である姿勢や動きが変わらない限り根本的な解決にならないのは周知のことです。

それでは治療家はいかにあるべきなのでしょうか。

直接的に指圧や手技療法に関係するものではありませんが、身体論や教育論に造詣の深い竹内敏晴氏の言葉が示唆に富んでいるのでそれを借りて思索を深めたいと思います。

竹内氏は『方法とは人のからだが、そしてこころが見え、あるいは感じうる可能性を広げ深めるためのものであるはずだが、その方法によって見る、とずれたときに、それにあてはまるものしか見ることができず決定的に見落としてしまうものが出てくるのではないか』と述べています。

僕はこれを指圧の療法的な知識や医学的な知識の在り方と捉えます。
現代において支配的な地位を占める西洋医学の知識を知ることは決して無意味ではありません。
それは人間の知恵であり、その恩恵は計り知れないからです。
しかし、西洋医学が絶対的であると言うのではありません。東洋医学もまた然りです。

何より様々な観点を持つことが重要であると考えるからです。

そして『ほんとうに深い集中の中でからだが動き、思いがけぬ自分がいきいきと動き、それを仲間と共有しあう』ことを指圧の技術的な本来の在り方であり、同時に一般的な日常生活の在り方、すなわち自然なからだの在り方と捉えたいと思います。

それは『相互に働きかけるものとして自覚すること、自分を相手に手渡すこと』を前提とした『主体と客体が切り離された対立関係として定立される近代の志向を実践の中で超えてゆく行為』だからです。
それが医療の原点ともいえる『共に癒えてゆく喜び』となり日常生活における『共に生きる喜び』に他なりません。

それでは指圧という具体的な技術はいかにあるべきでしょうか。

それは『からだをときほぐすことは、肉体の緊張だけではなく、内なる身構えをとく』という認識に立ち、からだをときほぐし、息を深くしていくこと。
人間存在=からだ全体、に寄り添うこと、です。

決して歪みを物理的に正すことが目的なのではない、一方的に変えるのでなければ変わるのでもありません。

『ひとはさまざまな迷いやあやまちに出会い、そのとき他の人との関係によってみずからに気付き、苦しみを超えることによって成長する』とするならば、苦痛や病でさえも『共に気付いてゆく喜び』の中で癒えてゆくものでしょう。

竹内氏は言います『姿勢とはわたしというからだが生きている形です。わたしが世界に棲み込み、他者に向かい合い、それにふれる、この存在の仕方すべてのあらわれにほかならない』

僕はついに確信に至りました。今そこにある身体は決して歪んでいないと。

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2008 11/28 (金曜日)

決心すると

なおです。

Brown’s Fieldでのお料理教室も今月で最終回。

今回は、さつまいもを掘って。
芋  
焼き芋を焼いて。
焼き芋

今年取れた新米で お餅をついて。
餅つき

みんなで美味しくいただきました☆
モチランチ

なんだか収穫祭みたい♪

そしてその後
これからしたいこと こうなりたい自分などを
みんなで宣言し合いました。
 

こうしたいな こうなればいいな。

ではなく

こうする!こうなる!

宣言して言い切ってみると
自分の中から 不思議と力が湧いてくるのを感じます。

何だか 自然と足が前に動き出しそう。

“決心する”

それはけして大きなことではなく
普段自分がどんな風に毎日を送りたいのか
どんな人でいたいのか。

そんな毎日を生きるうえでも 
とても大切なことなのだと思います。

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2008 11/26 (水曜日)

癒しの本質

こんにちは、こはりです。

先日、縁あってレイキのアチューンメントを受けてきました。

「内在しているが、機能させていない能力を目覚めさせ、活性化させる方法」

という定義の通り、アチューンメントに対して僕は特別に神秘的な印象は持ちませんでした。
中には劇的な変化を感じる人もいるのでしょう。

僕は多かれ少なかれすでに持っている能力、つまりオールオアナッシングでなく、重要になるのはアチューンメントを契機とした各人のメンタリティなのだと感じました。

それは“本物の道”たりうるものに共通する本質に他ならないでしょう。

アチューンメントの効用は一種の通過儀礼、それ以上でもそれ以下でもなく、アチューンメントを契機とした意識、または身体感覚の覚醒もしくは変容が起こることに意味があるのだと。
具体的に言えば、手に癒す力があるという信念が確固としたものになり、手に対して特別な意味付けがなされるようになること。
同時に他者へもしくは自己に対して確信をもって手を当てる頻度を多くするということが、感度を開発するのに十分であること。

レイキの特徴として気功と比較されるものに、エネルギー源が気功の場合、人間個人であるのに対して、レイキは自然または宇宙といった遍在する概念であることが挙げられます。

つまり意識的に出すもの、に対して無意識のうちに出るもの。

気功が事前に強い意図を必要とするのに対し、レイキはまったくそれを必要としないということは施術者の疲労度、消耗度に大きな違いを生むことになります。
これは野口晴哉の「輸気」から「愉気」への変遷や、「経絡指圧では、相手を治すために指圧する、という考えを捨てて、もっぱら「証をみる」ことに専念する方法をとっている。素人の推圧には「言われた通りに」という素直さがあるが、プロは圧して治そうとするから我が出やすい。治すのは患者自体であるのに、指圧の技術が治すような錯覚をいつか持ち出すからである。」と喝破した増永静人の思想に共通するものでしょう。

武道の世界においては島田明徳が「「心」の囚われが消えることで、筋肉の深い緊張が取れて、本当の意味で身体を自然に動かせるようになる」
「「やろう」と思わなければ「やれない」しかし「やろう」という思いを引きずったままでは自然には「やれない」この矛盾を解決することが人間の潜在能力を引き出す上で最も重要な鍵になります」と述べています。

増永静人はまた「「証をみる」とはあくまでも患者の生命を信頼して、これに従うという態度が大切なのであって、証が当たる、当たらぬは第一義ではない。患者のすべてがみえてくるとき、それは治療者の我がなくなっているのである。その心が患者自らも気づかぬ腹の底まで手当が及ぶおさえ方になっているのである。」と述べています。

気が出る、出ないは第一義ではない…

見かけの技術は数多くあれど、結局還元するのはその人自身であること。

“すべてはつながっている”

これ以上の真理はないように思えた。

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    2泊3日 32,340円

  • 基本プラン

    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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