する贅沢から、しない贅沢へ

2009 4/12 (日曜日)

喜捨としての断食

こんにちは、こはりです。
今日は断食のお話。

断食は必ずしも楽ではない。
肉体的にも精神的にも苦痛を伴う場合もあるだろう。

にもかかわらず断食志願者が後を絶たない。
古今東西断食の歴史は長い。

それは断食による苦しみを補って余りある「やすらぎ」をそこに見出しているからではないだろうか。

僕は「断食」というものをつぶさに見る者として、その「やすらぎ」の淵源は何かと考えるに至った。

そして導き出した答えが「喜捨としての断食」という発想である。

生まれてから、しばらくは親の庇護を受け、教育を授かり、あらゆる面で人から恩恵をこうむる人生を過ごすことになる。
その後、人は独立し少しずつ「人に何かをしてもらう人生」から「人に何かを与える人生」を志向するのではないか。

それは仕事であるかもしれない。
例えば恵まれない人たちに寄付をするとか、途上国の現地で活動するとか、地球環境問題に積極的に関わるといった形かもしれない。

もっと身近に親孝行に始まって、恋人を愛すること、家族を養うことなのかもしれない。

「人間は社会的な動物」と言われる。

僕はそれをエネルギーの交歓をしなければ生きられない存在を言うのではないかと考える。

例えば、呼吸がまず吐かなければ吸うことができないように、より大きなエネルギーを得たいと思うのであれば、まず自分から果敢に出していかなければならないだろうと。

それは最初勇気のいることかもしれない。
巷間で保険商品がもてはやされるのも、人間の抱える潜在的な不安、そこから派生する出さずに蓄えていこうとする姿勢がある。

しかし、水の流れを見れば明らか、流れを拒み停滞すれば水はよどむ。
エネルギーも同様にダイナミックに循環させてこそ常に新鮮で活力に満ちたエネルギーであり続けられる。

こんな文章がある。

『「獲得しよう」という思いは、「自分には不足したものがある」という無意識の不安や恐怖の表れです。
そのような不安や恐怖に基づいて行動すると、自分に対して「おまえは不足しているんだよ」というメッセージを刷り込んでしまいます。
だから、世界から獲得しようという思いは、あなたの気を貧しくするのです。
しかし逆にあなたが、世界に対して与えるという思いを抱いたらどうでしょう?
今度は、その思いが、「自分には、世界に対して与えるものがある」というメッセージを、自らの無意識に刷り込むことになるのです。
その結果として、気が豊かになるのです。
宇宙には、いろいろな法則があります。
たとえば、与えるものは、ますます豊かになるというのも、その一つです。
だから世界に与えることと、自らが豊かになることは、車の両輪なのです。』遠藤喨及

断食のもたらす「やすらぎ」

生きていく上で欠かさざる欲求である食欲を自発的に自制していく。

その行為は体内の余分な「もの」を外に排泄していく以上に、内に秘めたる利他的な「思い」を世界に向けて発信していく営みではなかろうか。

先進国に生きる我々は「何かを得る幸福」を大方達成してきた。
そこに真の「やすらぎ」がないことも学んできたのだろうと思う。

断食は古くて新しい。
これからの時代を生きる人間の「やすらぎ」は狭い自我を超えた大我に裏打ちされているのかもしれない。

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