食生活改善

2014 5/6 (火曜日)

断食の真価

病気の原因として、肉体的な生活上の原因というのは厳然としてあります。

生活習慣改善が奏功する例ですが、ある特定の健康食品をとることでも、肉体への刺激となって、見かけ上の症状が動揺、変化するように見えます。

一時的な症状の消失をもって治癒とするならば、「○○を食べれば病気は治る」式のロジックは成立するのですが、病気の原因は往々にして、肉体と精神を横断した複合的なもので、心の使い方、誤った想念のもたらす病気であったならば、肉体への刺激のよってもたらされた一時的な変化としての肉体症状の消失があったとしても、完治ないし、病気を克服したことにはならないでしょう。

世の中には健康法や治療法はあまたありますが、それが心のあり方にまで及ぶものは少ないように思います。

病気の原因を肉体のみに還元し単純化することで編み出される、症状を変化させるためだけの刺激療法は、人々の唯物的な思考を煽りこそすれ、最も重要な己の心の領域に分け入る余地を与えません。

反対に心を強調する方法論には、あなたの心がこのように悪いから病気になったと決めてかかるものもあります。

唱導する側も、それに納得する側も、所詮、強者の理論に過ぎないと思うのです。

それは生まれながらの不具を無視あるいは軽視した薄情さをそこに感じるからです。

心の問題はあったとしても、それを自分や他人を責め裁く材料にしてはならないでしょう。

「病は気から」の真意は、良きにつけ悪しきにつけ、心がとらわれること、不安や焦りを覚えるくらいなら、詳細な分析はしないで、いつも朗らかに柔和でいた方がずっと良いと思うのです。

その点、断食の実践は、理屈抜きで感謝の閾値を下げるものです。

不安や焦りなどのネガティブな感情が、感謝の一念に置き換われば、見える世界が全く別物となることでしょう。

それに伴って、想念、行為すべてが改変され、病気が治るかもしれません。

たとえ治らなくても、その病気にすら感謝できる心境になりうる断食の真価を、日々現場に立ち会っている者として、あえて申し上げていきたいと思います。

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2014 4/27 (日曜日)

断食の意義

「断食をして痩せたのはいいけれど、帰ったらまた元に戻ってしまいました」

体は変わったかもしれませんが、心は以前とまったく変わっていないことを表しています。

食べないことによって、日頃酷使されていた内臓に休息が与えられ、また、蓄えていたエネルギーが消費され、ある程度、肉体的な変化、改善が見られることでしょう。

これは野生動物が異常のある場合に、本能的に断食をして回復していることと同じことです。

「痩せたい」「治りたい」こうした悩み、苦痛から逃れたい一心で行う断食があり、こうした要求に応える断食施設が乱立し「断食すれば痩せる」「キレイになる」「病気が治る」と耳障りの良い言葉で、断食依存症を量産していきます。

断食施設に専門の指導者が存在するということは、こうした要求を偽らざる人情と心得つつも、断食の本当の意義を啓蒙し、肉体の変化にとらわれることなく精神的な変化へと誘導していくことなのだと思います。

断食が原初的、本能的な療法であるとともに、動物とは違い精神的に高度に発達した人間が断食を行う場合、古今東西の宗教に採用されていることがその証左となりますが、それは心の変革を伴う精神修養的な意味合いも帯びてくるということです。

実際に、断食をすることで、自らの内にある食欲、いわば本能的な欲求、生き延びようとする強烈なエネルギーに向き合うことがあります。

かえって食欲が強調されるので、とかくそれを卑しいものと思いがちで、自己否定的な感情を植えつける嫌いがありますが、断食は無欲であること、つまり、食べることの否定でもなければ、食欲の否定でもないことを確認しておきたいのです。

一切の無欲では、この現代社会での社会性が欠如してしまうことに気づかれるでしょう。

反対に、欲望を肯定したところの、ダイエットしたい、キレイになりたい、健康になりたい、病気を治したい、いずれの「~したい」はそれぞれ別の次元のものが混在しているように思いますが、結局「我良し」「利己的」に過ぎず、結局、心身ともに行き詰まってくることは経験されるところです。

つまり、経年劣化という自然法則に抗ったり、特別な何かを外側に求めても満たされることなく、「もっともっと」とまた次々に新たな欲望が生まれるということです。

生きるために食べることは必要であり、そのために食欲があるのですから、全く否定されるものではありませんが、それが心身を崩壊させるまで食べてしまうのは、欲求の方向性が誤っているということなのです。

自己に内在する強大なエネルギーの方向性を、生きるために必要な欲求を満たすことは自明として、それに飽き足らず、より高次に昇華していくことが、食べ過ぎることを避けるという消極的な意味も含みこんだ、きわめて人間的なあり方なのだと思います。

「人間的」であるために、その役割、使命を果たすため、長所伸長として「学ぶこと」活動を支える「体を整え鍛えること」精神力の発露として「人の幸せを祈る」ことに、精力を円満に費やすことが、欲望を肯定しつつ社会性を維持することにつながるはずです。

現代人の心が病み、社会性を失い、今までの生活を変更せざるを得なくなるのは、単に心が疲弊したのではなく、煽られるままに、自らの判断を放棄し、求め続け、不必要なものまで抱え過ぎた飽和状態から、なんとか救い出そうと、心の暴走を食い止める生命の尊い救命処置ではないかと思うのです。

いわば強制終了、日常からの離脱は、改めて日常を、ひいては自己を見つめ直す機会になるはずです。

人間には良くも悪くも「慣れる」という働きがあります。

嫌味な上司の度重なる小言も、慣れてしまうとストレスに感じなくなるのは「慣れる」ことの都合の良い面でしょう。

一方で、ビギナーの時は「ありがたい」と思えたことが、年月を経ることで感動が薄れ、感謝の気持ちを持てなくなってしまうことがあります。

これは「慣れる」ことの良くない面でしょう。

やすらぎの里で行うことは、この自分の中にある、いわば「ありがとうセンサー」の感度を本来の状態に戻していくということなのです。

食べられること、寝られること、体を動かせること、働けること、そんな日常のあたりまえのことにも感謝の気持ちを持てたら、こんな幸せなことはないわけです。

そのためにできることが「非日常」を体験するということなのです。

「食べない」ことで「食べる」ことが鮮明になります。

つまり「非日常」を体験することで「日常」が鮮やかに蘇ってくるのです。

難しい理屈抜きに、旅の途上、センチメンタルにホームシックになるだけでも良いと思います。

「やっぱりウチが一番だ」「お母さんの作ったご飯がおいしい」「この布団と枕が落ち着くんだよね」

日常が際立った瞬間です。

自分にとって何が大事なのか。

モノや情報が氾濫する現代社会に生きていると、外ばかりに視線を向けることになってしまい、自分の感性で生きるということができなくなっていきます。

時間に追われ、煩雑に過ぎていく1日の中で、どれだけ自分と向き合う時間が作れるでしょうか。

「ありがたい」は、いつでも自分の足元にあるのです。

ところが、それに気づく感性を、「慣れる」ために、いつしか鈍らせてしまっているのです。

断食はあくまでも断食であって、無食でも絶食でもないのです。

「断」そこには日常性、習慣性を断つという意味合いがあります。

現在、流行する「断捨離」思想の根源にヨガ指導者、沖正弘の哲学があります。

沖はこう述べています。
『ヨガでは、断食、断性、断財、断家庭(出家)断社会(独居冥想)の行法があるのである。時々、離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい観方、受取り方が生まれてくる。物の価値、ありがた味、必要性、恩、自己への協力、自分の位置、自分の責任などしみじみと味わうことができる。』

普段置かれている環境からから離れ、断食をしてみる。

当初は軽い気持ちで行ったことも、思いのほか、多くの気づきをもたらすものとなるでしょう。

ゲストの方々にとって、日常を鮮やかに蘇らせる契機になることを、ささやかに見守り、お祈りする、立会人となれれば、僕の使命も果たされるというものです。

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2014 4/19 (土曜日)

断食に向いている人

断食をしようと施設に訪れる人には、大きく二通りのタイプがあるように思います。

ひとつは、今まで自分の身体や健康には無頓着で、放埒な生活を送ってきたが、改めて見直そうと考え始めた人、
もうひとつは、不調に悩まされていたり、大病を機に、誰よりも健康に関する知識や情報を収集し、その実践に努めている人。

前者は、滞在をきっかけに、そんな考え方もあったのかと目を開かれ、生活習慣改善に邁進し始めることになります。

後者は、ほぼ知識としては備え、また世間に出回っている情報に半ば振り回され、自分に鞭打って頑張っている人であって、むしろこのような人こそ、自分の心身に向き合える機会をもつことが大切ではないかと思います。

世の中に出回っている情報は、当然ながら商業ベースに乗るために、部分的なエッセンスを取り出して強調し、キャッチーにわかりやすく単純化されているものが多いように思います。

そのまま実践しても、多くの場合、部分的な効果しか期待できず、本質的な解決になりえないようです。

こと人間の心身については、それほど単純なものではなく、情報を鵜呑みにして実践したはいいが、理屈通りにいかず、ますます、不安と混乱に陥っていくことになります。

いすれにしても、断食に関心を持つ人は、過剰、過多の時代にあって、余分なものを削ぎ落とし、シンプルに生きたいという潜在的な欲求があるように思います。

そのためにも「手放す」ことが大切になるのですが、そもそも、どうして過剰に所有し、振り回されてしまうのかといえば、そこには「漠然とした不安」があるからではないでしょうか。

まったく「おまかせ」の境地になってしまえば、とらわれることなく、はからうことなく、手放すことが容易になります。

すべてを自力で行おうと考えるところに、なんでも抱え込む癖がつき、自力で行えるはずだと考えるところに、力みや執着が生まれてくるわけです。

そこで、「他力」

自分でできることは限られていると謙虚になり、

「知足」

自分のできる範囲内において真摯に努め、それ以上を望まず、あとは大いなるものに委ねた安心立命の心境で、ゆったり、さっぱり生きてみてはどうかということなのです。

頭ごなしに「手放せ」と言われてもできないのが人情なのであって、一旦はとことん自力で踏ん張り、持てるだけ持ってみるのも無駄な経験ではないと思います。

極まって、腹をくくった時に、完全に肩の力が抜けるのでしょう。

断食は、一度「食べること」を手放してみる営みです。

絶対手放せないと信じ込んでいたことも、やってみると案外簡単で、気持ちの良いことに気づかれるはずです。

断食を端緒として、生活すべてがシンプルに、洗練されたものになっていくでしょう。

断食は生理的な効果はもとより、人生における「あたりまえ」に喜びをもたらし、豊かなものとすることができる画期的な方法であるところに、みなさんはすでに気づかれているのです。

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2014 4/13 (日曜日)

現代人のための食事療法

世にあまた食事療法がありますが、各人の体質に合致してこそ効果が上がるのだろうと思います。

その反対に体質を無視して画一的に行うのであれば、テクニカルな食事療法であるほどに害にしかならないでしょう。

同時に、食物を消化し栄養を吸収する内臓機能があってこそ、食事療法の効果が発揮されるのだという観点も必要ではないでしょうか。

力強い内臓機能なくして、食物の栄養を余すところなく活用することができないということです。

日本においても戦前、戦中は、きわめて粗末な食事でありながら、現代人以上の体力を発揮した人が多かったように思います。

一方、我々現代人は、公共交通機関の発達や、家電製品の普及で運動不足、筋力低下が慢性化しています。

その前提を考慮に入れずに、食事でのみ効果をあげようと考えることは、いたずらに内臓を酷使するばかりで根本的な解決にはならないのだろうと思います。

いかに高栄養の食品を食べても、それが消化しきれず吸収されなければ、利用されないばかりか、その過程で内臓が疲弊してしまうことになりかねません。

それでは、内臓機能を高め、食事療法の恩恵を十分に受けるにはどうすればいいでしょうか。

まずは「完全な空腹」をつくることです。

さほど空腹でもないのに、時間が来たから食べるといった漫然とした食生活では、内臓の受け入れ態勢を無視した食事法といえます。

乾いたスポンジほど水をよく吸うように、飢餓感というものが、旺盛な吸収力を裏付けるものだと思うのです。

そのためにできることは、体を使い切るということです。

全身くまなくダイナミックに動かす機会を作りたいものです。

なぜなら、我々現代人はデスクワーク、頭脳労働主体であり、体の一部分を酷使することが多く、偏った疲れ方をしているからです。

それに加え、パソコンによる昼夜を問わない至近距離からの光の刺激は、脳や神経を異常興奮させ、早晩不眠や自律神経失調症状を呈していきます。

こうした脳、神経系統に限局した働き方は、内臓機能の低下も引き起こすのではないかと考えます。

血液の配分からも理解できます。

人間の体は使っているところに血液が集まるようにできています。

それは血液によって運ばれる酸素が活動に必須だからです。

つまり、頭や目を酷使するということは、身体でも上部、特に頭部を中心としたエリアに血液が集中することを意味しています。

その反対に体幹部や下半身の血液は相対的に減っていくということです。

この事実は、内臓の貧血、酸欠状態であり、内臓機能低下以外のなにものでもありません。

古来、東洋医学でも「思えば脾を病む」と言いますが、思考に偏ると栄養を吸収できないことを見抜いていました。

このような状態では、食事から栄養を吸収しようにもままならず、体力は低下し、ますます全身運動を敬遠するという虚弱な状態へと進んでいきます。

一面、サプリメントが功を奏するのも、食物から栄養を吸収できないほど弱った内臓でも、人工的に精製された形であれば吸収することができるということでしょう。

一時的にはサプリメントを活用することを否定しません。

しかし、長期的に常用した場合、ますます内臓の吸収力を弱め、人工栄養しか受け付けなくなるようになるでしょう。

鍛えることを怠り過保護になれば脆弱になるのは、すべての事象に共通することです。

以上見てきたように、現代人の病理というのは、社会的な要素もたぶんに含みながら複雑化しています。

栄養をたっぷり取ればいい、その反対に、ひたすら断食すればいい、といった単純明快な刺激では解決できなくなっています。

「補うこと」「鍛えること」この二つをうまく組み合わせながら、時間をかけて取り組んでいくことが重要でしょう。

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2014 4/4 (金曜日)

食の感動を創る断食

やすらぎの里が提唱したい断食の魅力、
それは食物に対して、
新鮮な感動を味わうことができるようになるということです。

普段であれば見向きもしないような粗末な食事であっても、
断食後は滋味深く染み渡っていきます。

食のありがたみ、
これは理屈ではなく身体が感じるものなのでしょう。

一方で、断食をして宿便が排泄され身体がきれいになったという実感が生まれると、
一度は食べることに対する嫌悪感が湧き上がってくることもあり得ます。

ここが人間の複雑さです。

シンプルな思考をもってすれば、
久しぶりにありつく食事をいただかない理由はありません。

しかし、食によって心身を病み苦しめられているという自覚を持っていると、
断食をして好転した状態を維持しようとするほどに、
食物=汚らわしいもの、といったネガティブな発想にとらわれてしまうのです。

「宿便」という言葉の響きも、
それに拍車をかけているでしょう。

「便が宿る」と書きますが、
諸悪の根源が腸壁に頑固にこびりついている様子がイメージされます。

「もはや宿便を溜め込まない」と強く決意するほど、
食べることに躊躇してしまうのです

しかし、理性的に考えてみれば、
生きることはすなわち食べることであって、
食べることを否定した上に生は存在し得ないでしょう。

もちろん、質と量の問題はあります。

劣悪なものを食べ過ぎれば害になります。
良いものでも食べ過ぎれば害になるでしょう。

内臓は疲弊し心身の精彩を欠いていきます。

適度な空腹感を維持しておくことが健康を保つ秘訣であることは、
異論を挟む余地はないでしょう。

そして、それと同じくらい、食事の楽しみ、
食卓を囲む団欒の意義があるのではないかと考えるのです。

どうせ食べるなら「おいしい、おいしい」で食べたいものです。

心の力を見過ごせないということでもあります。

まずい、体に悪いのではないか、
そんなことを考えながら食べれば、
どんなに体に良いものでも毒に変わってしまうでしょう。

食事がストレスになってはいけません。

もっといえば、食べられる側の立場になって考えたとき、
おいしいと言ってもらえたほうが成仏できるというものです。

断食後、通常の食生活に戻るにあたって、
一抹の不安を抱える方へ。

断食をしてリセットされた繊細な味覚を養うことをおすすめします。

そのためにもよく噛み味わうことです。

つまり、よく噛んで味わうことに耐えられない食品は避けることです。

味付けの濃いもの、
素材の味を覆い隠すほどべったりと甘いもの、
化学調味料の不自然ななうまみのするもの。

噛むことは健康に良い。

誰もが一度は聞いたことがあると思います。

しかしながら、言うは易し、
なかなか実践できないものです。

ところが、経験上断食をすると、
噛むことをむしろ進んで行うことができるようになります。

回復食を丁寧に行うと、
盛んになる食欲に釣り合わない少量の食事を前にして、
いかにこれで満足するかという知恵が醸成されるわけです。

つまり、すぐに飲み込むのが惜しい。

だから、もったいぶって噛んで噛んで、じっくり味わって、
それからゆっくりとのどを通していく。

この癖がつくと、普段通りの食事においても、
おいしさの次元が変わり、
量をかきこむことに快感を得られなくなります。

量よりも質を求めるようになるということです。

つまり、粗製乱造のバイキングよりも、
旬の食材を用い丁寧につくられた手料理の方が、
おいしいと感じられるようになるということです。

人間の行動原理は「快」が支配しているといいます。

噛んで味わうことを快に書き換えてしまう。

これも断食の醍醐味のひとつではないでしょうか。


 

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