「断食をして痩せたのはいいけれど、帰ったらまた元に戻ってしまいました」
体は変わったかもしれませんが、心は以前とまったく変わっていないことを表しています。
食べないことによって、日頃酷使されていた内臓に休息が与えられ、また、蓄えていたエネルギーが消費され、ある程度、肉体的な変化、改善が見られることでしょう。
これは野生動物が異常のある場合に、本能的に断食をして回復していることと同じことです。
「痩せたい」「治りたい」こうした悩み、苦痛から逃れたい一心で行う断食があり、こうした要求に応える断食施設が乱立し「断食すれば痩せる」「キレイになる」「病気が治る」と耳障りの良い言葉で、断食依存症を量産していきます。
断食施設に専門の指導者が存在するということは、こうした要求を偽らざる人情と心得つつも、断食の本当の意義を啓蒙し、肉体の変化にとらわれることなく精神的な変化へと誘導していくことなのだと思います。
断食が原初的、本能的な療法であるとともに、動物とは違い精神的に高度に発達した人間が断食を行う場合、古今東西の宗教に採用されていることがその証左となりますが、それは心の変革を伴う精神修養的な意味合いも帯びてくるということです。
実際に、断食をすることで、自らの内にある食欲、いわば本能的な欲求、生き延びようとする強烈なエネルギーに向き合うことがあります。
かえって食欲が強調されるので、とかくそれを卑しいものと思いがちで、自己否定的な感情を植えつける嫌いがありますが、断食は無欲であること、つまり、食べることの否定でもなければ、食欲の否定でもないことを確認しておきたいのです。
一切の無欲では、この現代社会での社会性が欠如してしまうことに気づかれるでしょう。
反対に、欲望を肯定したところの、ダイエットしたい、キレイになりたい、健康になりたい、病気を治したい、いずれの「~したい」はそれぞれ別の次元のものが混在しているように思いますが、結局「我良し」「利己的」に過ぎず、結局、心身ともに行き詰まってくることは経験されるところです。
つまり、経年劣化という自然法則に抗ったり、特別な何かを外側に求めても満たされることなく、「もっともっと」とまた次々に新たな欲望が生まれるということです。
生きるために食べることは必要であり、そのために食欲があるのですから、全く否定されるものではありませんが、それが心身を崩壊させるまで食べてしまうのは、欲求の方向性が誤っているということなのです。
自己に内在する強大なエネルギーの方向性を、生きるために必要な欲求を満たすことは自明として、それに飽き足らず、より高次に昇華していくことが、食べ過ぎることを避けるという消極的な意味も含みこんだ、きわめて人間的なあり方なのだと思います。
「人間的」であるために、その役割、使命を果たすため、長所伸長として「学ぶこと」活動を支える「体を整え鍛えること」精神力の発露として「人の幸せを祈る」ことに、精力を円満に費やすことが、欲望を肯定しつつ社会性を維持することにつながるはずです。
現代人の心が病み、社会性を失い、今までの生活を変更せざるを得なくなるのは、単に心が疲弊したのではなく、煽られるままに、自らの判断を放棄し、求め続け、不必要なものまで抱え過ぎた飽和状態から、なんとか救い出そうと、心の暴走を食い止める生命の尊い救命処置ではないかと思うのです。
いわば強制終了、日常からの離脱は、改めて日常を、ひいては自己を見つめ直す機会になるはずです。
人間には良くも悪くも「慣れる」という働きがあります。
嫌味な上司の度重なる小言も、慣れてしまうとストレスに感じなくなるのは「慣れる」ことの都合の良い面でしょう。
一方で、ビギナーの時は「ありがたい」と思えたことが、年月を経ることで感動が薄れ、感謝の気持ちを持てなくなってしまうことがあります。
これは「慣れる」ことの良くない面でしょう。
やすらぎの里で行うことは、この自分の中にある、いわば「ありがとうセンサー」の感度を本来の状態に戻していくということなのです。
食べられること、寝られること、体を動かせること、働けること、そんな日常のあたりまえのことにも感謝の気持ちを持てたら、こんな幸せなことはないわけです。
そのためにできることが「非日常」を体験するということなのです。
「食べない」ことで「食べる」ことが鮮明になります。
つまり「非日常」を体験することで「日常」が鮮やかに蘇ってくるのです。
難しい理屈抜きに、旅の途上、センチメンタルにホームシックになるだけでも良いと思います。
「やっぱりウチが一番だ」「お母さんの作ったご飯がおいしい」「この布団と枕が落ち着くんだよね」
日常が際立った瞬間です。
自分にとって何が大事なのか。
モノや情報が氾濫する現代社会に生きていると、外ばかりに視線を向けることになってしまい、自分の感性で生きるということができなくなっていきます。
時間に追われ、煩雑に過ぎていく1日の中で、どれだけ自分と向き合う時間が作れるでしょうか。
「ありがたい」は、いつでも自分の足元にあるのです。
ところが、それに気づく感性を、「慣れる」ために、いつしか鈍らせてしまっているのです。
断食はあくまでも断食であって、無食でも絶食でもないのです。
「断」そこには日常性、習慣性を断つという意味合いがあります。
現在、流行する「断捨離」思想の根源にヨガ指導者、沖正弘の哲学があります。
沖はこう述べています。
『ヨガでは、断食、断性、断財、断家庭(出家)断社会(独居冥想)の行法があるのである。時々、離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい観方、受取り方が生まれてくる。物の価値、ありがた味、必要性、恩、自己への協力、自分の位置、自分の責任などしみじみと味わうことができる。』
普段置かれている環境からから離れ、断食をしてみる。
当初は軽い気持ちで行ったことも、思いのほか、多くの気づきをもたらすものとなるでしょう。
ゲストの方々にとって、日常を鮮やかに蘇らせる契機になることを、ささやかに見守り、お祈りする、立会人となれれば、僕の使命も果たされるというものです。
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