2010 5/16 (日曜日)

「生を全うする」ということ

こんにちは、こはりです。
 
病気になってはじめて自分の身体があったことに気づく。

健康であると見失いがちな、この我が身のありがたさ。

つつがなく過ぎていく日々のなんと尊いことか。

症状に一喜一憂させられることが多い。

悪化と思われる経過をたどると、この身体が何者かに侵略されていくような不気味さと恐怖感にさいなまれる。

いつまで続くのだろう?
どこまでひどくなるのだろう?

こうしたネガティブな感情は心身相関の観点から言っても、免疫学的な見地から言っても、有益でないことは最近とみに示唆されている。

理屈ではわかっていても、いざ自分の身に起きたとき、理性的でいられる人はどのくらいいるだろうか。

症状=悪

不快と自覚されるものに対しては当然の反応といえよう。

この自縄自縛の呪縛から解き放たれんとして、掲げられた先人の言葉がある。

「症状即療法」

生命の営みに対して全幅の信頼を置かなければ発せられない言葉だ。

そこに希望はあっても絶望はない。

そもそも生命というものは「生きるエネルギー」そのものといってもいいのではないだろうか。

最後の一滴の枯渇するまで、それは「生き延びようとする力」である。

自殺は人間の所業であって生命の意思ではない。

細胞レベルでのアポトーシスも、より良い生を前提として行われるものだ。

症状によって端的に表される生命のゆらぎ。

それはより良い生のために企図される自然的にして建設的な営みではないだろうかと。

物質至上主義に堕せば、それはニヒリズム以外の何物でもないかもしれない。

しかし、人間には気高い精神がある。

まったく波風の立たない水面に躍動感を見出せないように、そこに生の喜びを感得できるだろうか。

寄せては返す波のリズムがあってこそ生命のダイナミズムを、そしてドラスティックな人生の醍醐味を味わうことができるのではないか。

一度きりの人生、不安、恐怖、悲壮感のうちに生きるか、喜び、希望、充実感のうちに生きるか。

主役は他でもない自分自身である。

見る者を飽きさせる平板なドラマより、拍手喝采の感動巨編を演じきりたい。

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