健康のために「何を食べるか」ということには関心があっても、「どう食べるか」については意外に無関心ではないでしょうか。
「何を食べるか」はもちろんのこと、「どう食べるか」も同じくらい、もしくは、それ以上に大切なことであると考えています。
「○○を食べると、健康になる、やせる、病気が治る」こうした情報は巷に溢れています。
しかし、より基本的な、それを「どう食べるか」ということについては、今まで体系だった教育を受けてこなかったのではないでしょうか。
それは食べるという行為があまりに本能に根ざした基本的な行為であって、無意識にでも行われてしまうからでしょう。
あえて教育が行われるとすれば、家庭での躾の領域になるのかもしれませんが、昨今、現代人特有の食生活が多大な影響を及ぼす生活習慣病の増加傾向を見れば、それが不十分であったことを示しているのではないでしょうか。
現代の核家族化によって、祖父母などの経験豊かな年長者に接する機会が減ったことも、連綿と受け継がれてきた食育、食の躾の断絶を招いた大きな要因でしょう。
つまり、現代人は意識的、主体的に学ぶ姿勢をもたない限り、食べることについて無知であることを免れないということです。
我々がよくしてしまう食べ方
新聞やテレビを見ながらの「ながら食い」
よく噛まない「早食い」
お茶やジュースなどで噛まずに流し込んでしまう「水飲み食い」
「食べること」は生命活動を営む上で最重要なことであるはずなのに、無意識に、かつ粗野に行われているとするならば、生命の質に直接関わってきても不思議ではありません。
今抱えている不調がもしかして、食べ方に原因があるかもしれません。
それではどのような食べ方が良いのでしょうか。
結論を先に申し上げれば、「姿勢を正し、今食べているものに集中する」ということです。
姿勢と感情が胃腸の機能に大きな影響を及ぼします。
食べるということは、食物を消化し、過不足なく栄養を吸収し、生きる糧にすることです。
滞りなく内臓が機能し円滑に消化吸収するために、以下、食べる前にチェックしてみましょう。
①背骨が曲がり神経を圧迫していないかどうか。
②前かがみになって内臓を圧迫していないかどうか。
③仕事のことや悩み事を考えながら憂鬱な気持ちで食べていないかどうか。
④セカセカと焦り呼吸が浅くなっていないかどうか。
「よく噛み、味わう」という食事の基本にして本質的なことを思い出すために、一度食を断ってみる「断食」もおすすめの方法のひとつです。
断食を行うと食物に対して新鮮な感動を味わうことができるようになります。
普段であれば見向きもしないような粗末な食事であっても、滋味深く染み渡っていきます。
食のありがたみ、噛める幸せ、味わえる幸せ、これは理屈ではなく身体が感じるものなのでしょう。
食べることをきわめていくと、そのまま瞑想的な境地に入っていくことができるようになります。
噛むことは人間の情緒と深く関わっている右脳を活性化する働きや、噛むリズムがセロトニン神経に働きかけ情動を安定させ、ストレスを軽減する働きがあります。(大リーガーがガムを噛んでいる理由)
ストレス大食い(ヤケ食い)の改善にも活用できます。
甘いもののヤケ食いはたしかにストレスを軽減する効果がありますが、胃腸障害や肥満のリスクが多大です。
ストレス軽減の手段を食べることから噛むことへシフトチェンジをすることで、健康的なストレスマネジメント法になります。
瞑想は「今ここにいる」感を取り戻す営みのように感じます。
ただでさえせわしない普段の生活。
心はどうしてもあちらこちら散漫に、または周囲に流されるままに、「今ここで起きていること」を十分に味わい尽くすことが出来ていないように思います。
「過去に対する後悔」「将来に対する不安」が心身の緊張を生みます。
「食べる瞑想」
食物をよく見ます。どんな形、色をしているのか。
触ってみます。
例えば植物であれば、なっていた木をイメージします。
一粒の種から、芽が出て枝となり木となり、花を咲かせ、今こうやって実を結んでいる。
この食物を丹精込めて作った人々を想像します。
日に焼けたやさしい顔が浮かぶようです。
口の中に含みます。
まだ噛みません。
舌や口で感じます。
噛みます。
味が口中に広がり、唾液もたくさん出てきます。
飲まずに味わいます。
飲み込みます。
口から食道に流れていくことを感じます。
こうやって過程をスローダウンさせながら味わってみる。
ゆっくりやる→いろいろな気付きが生まれる。
こうして食べている時、「今ここにいた」というわけです。
往々にして心は味わう前に先に行きたがります。
私たちの心は焦っているのです。
瞑想によって心を一ヶ所においてみる。
すると「自分への理解」「世界への理解」がグッと深まっていくのを感じます。
過去にも未来にも執着しないあり方。
瞑想はそのための心のトレーニング。
きわめて科学的です。
人間の原初的なあり方も、きっと一つの物事に専心する「シングルタスク」であったことでしょう。
現代は利便性、経済効率が優先される社会です。
同時にいくつもの物事をこなせることが必須条件であるかのようです。
しかし、そうした「マルチタスク」であることが、心を疲弊させ、ひいては「うつ」に代表されるような、いわばフリーズ現象を引き起こす原因になるのではないでしょうか。
瞑想的な境地として「マインドフルネス」という概念があります。
今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には捉われないでいる心の持ち方、存在の有様、と定義されます。
私たちは日々の生活どれだけ“今”を生きているでしょうか。
食べることでもそうです。
新聞を読みながら、テレビを見ながら、仕事の事を考えながら、食べていないでしょうか。
味わっているようで、そのことに集中していない。
どれも中途半端に終始している。
食べ物が口に入り、噛み砕かれ、舌の上でその味を知覚し、のどを通り抜けて、胃で消化されていく。
その過程をつぶさに感じることで、食物本来のおいしさや食感に気づき、またそうであるからこそ、栄養を完全に吸収し、残滓を排泄しきる機構が働くのではないでしょうか。
「中途半端」というのは、とてももったいないことです。
例えば映画を観に行ったとして、その映画の時間中、何度もトイレに席を立ち、そのストーリーがほとんど理解されない。
その映画を人生とすれば、日々の生活どれにも専心することなく中途半端に過ごすことで、人生を味わいつくすことができていないかもしれません。
そうした潜在的な「むなしさ」が、死を苦しめ恐れさせるのではないでしょうか。
全身を動かしきった先に、深い睡眠があるように、生ききった先に、静寂という死が待っているのだと思います。
食事に関して、「何を食べるか」が大切であることは言うまでもありませんが、それにもまして「どのように食べるか」が重要ではないでしょうか。
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