食生活改善

2014 6/9 (月曜日)

食べる瞑想

健康のために「何を食べるか」ということには関心があっても、「どう食べるか」については意外に無関心ではないでしょうか。

「何を食べるか」はもちろんのこと、「どう食べるか」も同じくらい、もしくは、それ以上に大切なことであると考えています。

「○○を食べると、健康になる、やせる、病気が治る」こうした情報は巷に溢れています。

しかし、より基本的な、それを「どう食べるか」ということについては、今まで体系だった教育を受けてこなかったのではないでしょうか。

それは食べるという行為があまりに本能に根ざした基本的な行為であって、無意識にでも行われてしまうからでしょう。

あえて教育が行われるとすれば、家庭での躾の領域になるのかもしれませんが、昨今、現代人特有の食生活が多大な影響を及ぼす生活習慣病の増加傾向を見れば、それが不十分であったことを示しているのではないでしょうか。

現代の核家族化によって、祖父母などの経験豊かな年長者に接する機会が減ったことも、連綿と受け継がれてきた食育、食の躾の断絶を招いた大きな要因でしょう。

つまり、現代人は意識的、主体的に学ぶ姿勢をもたない限り、食べることについて無知であることを免れないということです。

我々がよくしてしまう食べ方

新聞やテレビを見ながらの「ながら食い」
よく噛まない「早食い」
お茶やジュースなどで噛まずに流し込んでしまう「水飲み食い」

「食べること」は生命活動を営む上で最重要なことであるはずなのに、無意識に、かつ粗野に行われているとするならば、生命の質に直接関わってきても不思議ではありません。

今抱えている不調がもしかして、食べ方に原因があるかもしれません。

それではどのような食べ方が良いのでしょうか。

結論を先に申し上げれば、「姿勢を正し、今食べているものに集中する」ということです。

姿勢と感情が胃腸の機能に大きな影響を及ぼします。

食べるということは、食物を消化し、過不足なく栄養を吸収し、生きる糧にすることです。

滞りなく内臓が機能し円滑に消化吸収するために、以下、食べる前にチェックしてみましょう。

①背骨が曲がり神経を圧迫していないかどうか。
②前かがみになって内臓を圧迫していないかどうか。
③仕事のことや悩み事を考えながら憂鬱な気持ちで食べていないかどうか。
④セカセカと焦り呼吸が浅くなっていないかどうか。

「よく噛み、味わう」という食事の基本にして本質的なことを思い出すために、一度食を断ってみる「断食」もおすすめの方法のひとつです。

断食を行うと食物に対して新鮮な感動を味わうことができるようになります。

普段であれば見向きもしないような粗末な食事であっても、滋味深く染み渡っていきます。

食のありがたみ、噛める幸せ、味わえる幸せ、これは理屈ではなく身体が感じるものなのでしょう。

食べることをきわめていくと、そのまま瞑想的な境地に入っていくことができるようになります。

噛むことは人間の情緒と深く関わっている右脳を活性化する働きや、噛むリズムがセロトニン神経に働きかけ情動を安定させ、ストレスを軽減する働きがあります。(大リーガーがガムを噛んでいる理由)

ストレス大食い(ヤケ食い)の改善にも活用できます。

甘いもののヤケ食いはたしかにストレスを軽減する効果がありますが、胃腸障害や肥満のリスクが多大です。

ストレス軽減の手段を食べることから噛むことへシフトチェンジをすることで、健康的なストレスマネジメント法になります。

瞑想は「今ここにいる」感を取り戻す営みのように感じます。

ただでさえせわしない普段の生活。

心はどうしてもあちらこちら散漫に、または周囲に流されるままに、「今ここで起きていること」を十分に味わい尽くすことが出来ていないように思います。

「過去に対する後悔」「将来に対する不安」が心身の緊張を生みます。

「食べる瞑想」
食物をよく見ます。どんな形、色をしているのか。
触ってみます。
例えば植物であれば、なっていた木をイメージします。
一粒の種から、芽が出て枝となり木となり、花を咲かせ、今こうやって実を結んでいる。
この食物を丹精込めて作った人々を想像します。
日に焼けたやさしい顔が浮かぶようです。
口の中に含みます。
まだ噛みません。
舌や口で感じます。
噛みます。
味が口中に広がり、唾液もたくさん出てきます。
飲まずに味わいます。
飲み込みます。
口から食道に流れていくことを感じます。

こうやって過程をスローダウンさせながら味わってみる。

ゆっくりやる→いろいろな気付きが生まれる。

こうして食べている時、「今ここにいた」というわけです。

往々にして心は味わう前に先に行きたがります。

私たちの心は焦っているのです。

瞑想によって心を一ヶ所においてみる。

すると「自分への理解」「世界への理解」がグッと深まっていくのを感じます。

過去にも未来にも執着しないあり方。

瞑想はそのための心のトレーニング。

きわめて科学的です。

人間の原初的なあり方も、きっと一つの物事に専心する「シングルタスク」であったことでしょう。

現代は利便性、経済効率が優先される社会です。

同時にいくつもの物事をこなせることが必須条件であるかのようです。

しかし、そうした「マルチタスク」であることが、心を疲弊させ、ひいては「うつ」に代表されるような、いわばフリーズ現象を引き起こす原因になるのではないでしょうか。

瞑想的な境地として「マインドフルネス」という概念があります。

今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には捉われないでいる心の持ち方、存在の有様、と定義されます。

私たちは日々の生活どれだけ“今”を生きているでしょうか。

食べることでもそうです。

新聞を読みながら、テレビを見ながら、仕事の事を考えながら、食べていないでしょうか。

味わっているようで、そのことに集中していない。

どれも中途半端に終始している。

食べ物が口に入り、噛み砕かれ、舌の上でその味を知覚し、のどを通り抜けて、胃で消化されていく。

その過程をつぶさに感じることで、食物本来のおいしさや食感に気づき、またそうであるからこそ、栄養を完全に吸収し、残滓を排泄しきる機構が働くのではないでしょうか。

「中途半端」というのは、とてももったいないことです。

例えば映画を観に行ったとして、その映画の時間中、何度もトイレに席を立ち、そのストーリーがほとんど理解されない。

その映画を人生とすれば、日々の生活どれにも専心することなく中途半端に過ごすことで、人生を味わいつくすことができていないかもしれません。

そうした潜在的な「むなしさ」が、死を苦しめ恐れさせるのではないでしょうか。

全身を動かしきった先に、深い睡眠があるように、生ききった先に、静寂という死が待っているのだと思います。

食事に関して、「何を食べるか」が大切であることは言うまでもありませんが、それにもまして「どのように食べるか」が重要ではないでしょうか。

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2014 6/1 (日曜日)

「する」と「なる」

例えば、姿勢を改善するためには、「良い姿勢にする」と「良い姿勢になる」があります。

「する」は意識的に矯正することで、良い姿勢に仕向けていくことで、「なる」は図らずも良い姿勢になっているということです。

「する」はある程度のところまで是正できるのですが、股関節など姿勢を形作る上で重要な関節の硬直が強い場合など、そのままの状態で無理に外見的な良姿勢をとろうとすることで、かえって、ひずみや痛みが出てしまうことになります。

一方、「なる」は股関節など、身体各部の硬直をやわらげ、しなやかな体を作っていく結果として、自然と良い姿勢が形作られていくということです。

これは姿勢に限らず、食事にも当てはまることで、導入として、既存の食事療法に則り「良い食生活にする」段階と、心身ともに安定的に整ってくることで、自分に適したものを好み、不適なものを好まない感覚が育ち、自然と「良い食生活になる」境地があります。

野生動物は、原初的な感覚を失っていないので「なる」だけで事足りるのですが、人間、特に現代人の場合、不自然きわまる環境に身を置き、本来人間にも備わっているプライマルセンスを鈍らせてしまっているので、時に、

「する」という意識的な取り組みが必要になってくるのです。

しかしながら、「する」ばかりでは、本来の人間としての自然性を取り戻すまではいかず、その人の個性を加味した、生命が喜ぶオーダーメイドの方法とはならないわけです。

「する」と「なる」を、生活のいかなる局面においても両立されることで、より質の高い、快適な生活を営めるのだと思います。

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2014 5/25 (日曜日)

山の行より里の行

「山の行より里の行」という言葉があります。

修験行者の心得として、山の修行で身につけた功徳を里で実践することを言ったそうです。

裏を返せば、自分だけの悟りを求めて突き進んでしまいがちな人情を表しているとも言えます。

妻子を捨て、山にこもって厳しい修行を行う。

尊い生き方にも思えますが、無責任な生き方とも言えなくもないわけです。

家族との調和をはかり、生活の安定のために働くという、当然のことを踏みはずして、その環境から逃げるように「悟り」「修行」の美名にすがりついていく。

よっぽど俗世間の悲喜こもごもの中にこそ、気づきや学びの機会があるのであって、人格を高めることになるという皮肉も混じっています。

旧来の断食ないし、断食施設というものは、「山の行」の要素があったことでしょう。

一定期間、日常から隔絶した環境で、自らに厳しい断食を課すことで、肉体的な健康を回復したり、精神を研ぎ澄ますことを期待していました。

その点、「やすらぎの里」は日常生活の理想のあり方を提案し、それを身をもって実践していく場であり、きわめて「里の行」的と言えましょう。

日常を離れながらも、生活感のない現代人にとっては、むしろ里よりも里らしいがために、「やすらぎ」を感じるのかもしれません。

「あたりまえ」という「やすらぎ」

「全人格的な生活観」を提案するのが「やすらぎの里」であって、その名にふさわしい「里の行」が日々行われているのです。

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2014 5/19 (月曜日)

食の断捨離

「断捨離」という言葉はだいぶ馴染みのあるものになりました。

やましたひでこさんが収納術とからめて提唱されたもので、もともと沖正弘先生による沖ヨガの修行哲学に由来するものです。

「断行、捨行、離行」を食事に当てはめてみることもできます。

「断行」は、そのままずばり「断食」です。

断とは日常性、習慣性を断ち、非日常に身を置くことです。

断食というと「食べないこと」であって、それによって、普段食べ過ぎによって酷使されている内臓に休息が与えられ、様々な生理的な効果が期待されますが、もう少し「断行」について踏み込んで言えば、非日常に身を置くことで改めて、あたりまえの日常のありがたみ、必要性、恩を感じられるようになるということです。

食べること以外にも、日常的な、寝ること、働くこと、家族と一緒に過ごすことなども、一度断ってみることで、改めて尊さが身にしみることと思います。

「ありがたみ」を取り戻す営みが「断行」と言えるでしょう。

「捨行」は、捨てるということですが、心身に溜め込んだ澱、ネガティブな感情や、脂肪、老廃物、腸内の残滓などを、きれいさっぱり捨てることです。

モノや情報にあふれ、一日中そうしたノイズに接する我々は、過剰な欲望を煽る風潮も相まって、必要なモノ以外にも不必要なモノも溜め込んでしまいます。

端的に言えば、それは便秘ですが、これは単に腸の機能低下だけでなく、手放すことへの漠然とした不安や恐れによって、出し惜しみしてしまう心が、体に表れているということもできるのではないでしょうか。

不安や恐れといった感情は、心身の緊張感となって交感神経を優位にさせ、内臓機能の低下させることは自律神経の観点からも説明がつきます。

外部からの情報やしがらみを遮断した非日常の場において、責任感や、意地、プライド、あるいは、焦りや不安、恐れなどを解き放って、大の字になって天を仰ぐかのように、おまかせの境地になってみることで、肉体的にも精神的にも本質的な「捨行」がなされるのだと思います。

「離行」ですが、これは一切のとらわれ、はからい、こだわりを手放すことだと思います。

体に良いからこれを食べる、体に悪いからこれは食べない。こうした、情報や知識に基づく食事法には、自らの身体に対する信頼もなければ、その声に耳を傾ける姿勢もありません。

外側にある情報や知識を判断基準にするということは、身体の声を抑圧することと同じで、早晩、身体からの嘆きが病気という形で表れてもおかしくありません。

身体の声に耳を傾けるということは、他者によってもたらされる理論や原理原則にとらわれるのではなく、自らの心身の快感覚に従うということです。

今の自分が最も必要としているものは、他の誰でもない自分が一番よく知っているのだという絶対的な信頼のもとに、食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べて健康になるあり方です。

こう言うと、快感に耽溺し、放埒に流れ、不健康になってしまうのではないかと懸念される方もあるかもしれません。

たしかに、不自然極まる現代社会の日常性に慣れ、鈍麻した心身状態では、そうなってしまうでしょう。

しかし、ここで言ったような断行、捨行を経た心身は、本来の繊細な感覚を取り戻しているので、自分の欲求に従っても矩をこえず、たとえ、一時的に道を外れても、排泄するなり、解毒するなりの自浄作用が健全に働き、バランスを取り戻せることでしょう。

生命の働きを旺盛にしてくことによって、おのずと健康になっていくということが、誰の目にも明らかな王道であるにもかかわらず、往々にして外部の知識や情報に頼ることによって、むしろ自らの生命の働きを信頼せず、結果として貶めることが、まるで健康法であるかのように錯覚しているのが、情報過多の現代人の皮肉にも不健康な現実ではないでしょうか。

「断捨離」は物質主義の極まった現代日本にこそ、まさに必要な思想と言えるでしょう。

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2014 5/10 (土曜日)

こころの断食

東洋的なるものは「自然との調和」を志向しているのだと思います。

自然との不調和が病気の原因であるとするならば、自然の摂理、生命の法則にそった生活をすることが本質となるでしょう。

にもかかわらず、健康法や治療法において、東洋的と標榜するものでさえ、その本質からはずれ、浅薄な知識をこねくりまわし、ゴテゴテと脚色し、技巧を凝らしたものが多いように思います。

「とらわれ」や「はからい」をますます生み出すばかりで、それが病気の原因であることに気がついていないかのようです。

人類の意識、つまり大脳の発達は一方で文明の発展をもたらしましたが、野生動物にはない多くの慢性病を作り出したということも事実でしょう。

「考えることをやめてみる」というのは瞑想そのものですが、健康法も「瞑想的」に行ってこそ、人間にふさわしいものとなるのでしょう。

断食は「食べることをやめてみる」という非日常的な体験から、原初的な感覚をよみがえらせる営みです。

いわば視床下部、視床、脳幹などの、原始脳を賦活させることで、相対的に複雑な思考を織り成す大脳新皮質を抑制します。

これは、生命維持のための優先順位が再定義されるということでもあり、「自然に生かされている生命体」に立ち返ることで、人間の業を改めて見つめなおす機会にもなるのです。

何を捨て、何を取るか。

あまりにも余分なものを抱え込みすぎた現代人が行き着くのが、断食というのも必然なのかもしれません。

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  • お手軽プラン

    2泊3日 32,340円

  • 基本プラン

    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

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