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2010 11/19 (金曜日)

愛なき身体

こんにちは、こはりです。

ごくたまにグリーン車に乗ることがある。

車内販売があったり、リクライニングを倒して、ゆったりと座ることができる。

夜は背広姿のサラリーマンが多い。

どちらかと言えば中高年、年輩の方が過半数。
気兼ねなく一杯ひかっけられるのもグリーン車ならではだ。

そんな中高年のサラリーマンが降りた後の座席を見ると、大概、飲み終わったペットボトルがそのまま置かれていたり、
ビニール袋が足元に捨ててあったり、窓際に鼻をかんだ後のような、まるまったちり紙がおいてあったりする。
いわずもがな、そんな席は例外なくリクライニングが倒れたままだ。

「立つ鳥後を濁さず」という言葉がある。

さりげない配慮、日本人らしい美徳だと思うのだが、実際は濁しておいて知らんふりだ。

周囲の人達に迷惑をかけないように、次に席につく人が快適であるように、という配慮は
空間的、時間的に広く見渡す想像力が働かされる。

よっぽどイマドキの若者の方が後始末がいい。

場の空気を読む力がまだひからびていないからだろうか。

こうした力は身体性に直結する問題だと思っている。

身心一如、見るからに体が凝り固まり、頑迷固陋な精神性をにじませている。

いよいよ繊細な感覚は失われ、感度は鈍くなるばかりだ。

こまやかな神経は、力みのないゆるんだ身体に宿る。

齢を重ね、悲喜こもごも人生経験を積み、円熟し、達観していてもいい年頃のよ
うに思えるのだが、見た目の貫禄に対し、精神的な貧弱さを見せつけられるのは、
人生の後輩として忍びない。

かくいう僕にも経験がある。

学生時代、バイトを終えていつもの帰り道。

年末とあってせわしなく人通りは多い。

このところ急激に冷え込み頬に当たる風は厳しかったが、長期の休暇を控えていたこともあっていつになく気持ちよく歩いていた。

三越を過ぎると日本橋がある。

江戸時代には江戸の象徴的存在として親しまれてきた日本橋も今は見る影もない。

下には悪臭を放つドブ川が走り、堪らず天を仰いでも轟音を立てる首都高が踏みつけるように走っている。

まさに利便性、機能性、経済効率だけの現代日本を象徴しているかのようである。

情緒や叙情性など微塵もない。

そんなことを考えながら歩く。

そろそろ高島屋が見えてくる。

石畳の道の先、何やら白いものが見える。

だんだんと近づく。

マフラーだ。

道の真ん中である。

踏まれて汚れてしまうだろう…

すると前から60代後半であろうか、女性がサッとそれを拾い上げ、はたき、路傍の道標に掛けた。

その一連の所作になんだか見とれてしまっていた。

「なつかしい」

幼い頃、曾祖母に手を引かれ歩いた時に見ていた光景であった。

その時分でも、もういい年齢で膝や腰が悪かったが、腰をまげサッと拾い上げて、自分の物のように慈しみほこりを払う。

そして、そっと路傍に掛けておく。

身体に染み込んだ動きとでも言おうか。

美しい所作である。

ところが、その時の自分はといえば、ポケットに突っ込んだ手を出すことができなかった。

いつから落ちている物は汚いとか、危ないと思うようになってしまったのだろうか。

社会情勢を言い訳にするのは簡単である。

モラルや道徳を持ち出すほどのものでもない。

考えてからでは遅いのだ。

自らの身体性、そして五感の鈍りを痛烈に感じざるを得ない。

現代の病理が着実に我が身体を巣喰っているのだ。

身体はありのままの自分を映す。

失われたものは大きい。

だからこそ身体に素直に耳を傾けよう。

大好きだったひいばあちゃんにそっと手を合わせた。

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2010 11/16 (火曜日)

闇を照らす光としての教育

こんにちは、こはりです。

ある小学校のクラスでは「ユーモア詩」なるものを実践している。

ユーモアあふれる詩の創作だ。

なんでもいい。
好きなこと、思ったこと、おもしろいことを書いてみよう。

こうして始まる授業はまず小学校低学年ならではの「うんち」「おなら」「おしっこ」といった笑いをとりやすい話題が出ることを恐れてはいけない。

導入はそれでいい。

何度か創作を繰り返していくうちに子どもたちは「相手を笑わせる=思いやり」だということに気が付いていく。

この授業を実践する先生は学級崩壊を経験していた。

無気力、無関心、逃避、反抗。授業が成り立たない。

その中で子どもたちは「共感的な他者」を求めているのだと気づく。

そして「ユーモア詩」授業を発想した。

子どもたちは次第に豊かな感受性を目覚めさせていく。

家族の話や日常生活の機微を見事に活写し始めた。

大人顔負けに、いや子どもたちならではのみずみずしい感性で表現する。

さらに相手を笑わせるためには普段嫌われていてはうまくいかないことがわかってくる。

笑いの条件に「いい人であること」、つまりその人の人間性や相手との関係性が重要な要素なのだ。

そしてある時「ユーモア詩」の授業によって「受け止められる」「自分をさらけ出す」という経験を重ねていくと、胸の奥にしまい込んでいた感情が噴出することがあるという。

今の小学生は思っているほど無邪気ではない。

「本音を言って傷つくのが怖い」そんな繊細さをもっているのだ。

『卵焼き』

つかれて帰ってくるお母さんのために
卵焼きを作った。
9時に帰ってきたお母さんに
「私が作ったの。食べて…。」
と言って卵焼きを差し出した。
そしたら
「あなたの作ったものなど食べられないわよ!」
と言われた。
それから目の前で
ゴミ箱に捨てられた。
私はすごく悲しくなった。
先生、私はそんなに悪い子ですか?

これはある生徒の詩である。

この時の彼女の悲しみはいかばかりか。

さらにずっと胸の奥にしまい込んでいたそのさみしさといったら。

僕は正直彼女のお母さんに対して憤りを禁じ得ない。

この子が生まれてきた意味はなんだろうか。

それ以前に、この親は自分の子供にこのような待遇をするために生まれてきたわけではないはずだ。

『自分のために生きてはいけない。自分の中にうずもれている「愛」に気づかず、それを活かさずに死んではならない。自他の喜びを創造して生きるのだ。』

ヨギ沖正弘の言葉が突き刺さる。

愛情を持って育てなければ…言葉で言うのはたやすい。

現実として親の愛に恵まれずにいる子どもたちはたくさんいる。

だから「愛がなければ…」と簡単に言ってしまうのは、その子たちを否定するようで気がすすまない。

真実をありのままに受けとれば、人がこの世に生まれてきたのは経験し学ぶためである。

そして、その学び方には「光」からと「闇」からの二通りがあるという他ない。

些末な日常でさえ「成功」から学ぶこともあれば「失敗」から学ぶこともあるだろう。

一方で愛に満ちて育つ子がいる。
他方で孤独にさみしく育つ子がいる。

どちらも愛を知ることに違いはない。

しかし、その孤独にたえかねて命を絶つ子もいる。
虐待の末殺される子もいる。

これが現実だ。

幸いにも「卵焼き」を書いたこの子にとって教育は闇を照らす光であっただろう。

この詩が先生をはじめ周囲の愛ある人の目に触れることによって、周囲にあふれる愛に触れたに違いない。

そして、一生の支えとなる愛を知ったのではないだろうか。

いつでも教育は闇を照らす光であるべきである。

「教えて育てる」そんな一方的なやりかたであったならば、この子がこのように胸の内を語れる日が来たであろうか。

「教え=愛 を育む」人間はもともと愛をもっている。

それを育むのだ。

そんな姿勢でこそ教育は輝くものだと信じている。

教育の力によって、いつの日かこの世から孤独な家庭がなくなることを祈りながら。

『今日の夕食』

「今日の夕食はハンバーグでいい?」
とお母さんが言いました。
ぼくは
「早く食べたいなー」
と思いました。
夜になってお母さんが
「あらら、すごいよー」
と言いました。
何がすごいのかと思って
見てみたら
ハンバーグが
お父さんの顔ぐらい
大きかった
ぼくは
「わあ!」
と思いました。
みんなでひとつのハンバーグを食べた。
おいしいと思った。

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2010 11/12 (金曜日)

生命力強化法 

こんにちは、こはりです。

沖ヨガの生命力強化法、通称「強化法」

生物の進化の過程を観察して創り上げられたメソッド。

進化は「環境への適応である」というスタンス。

生物は水中から地上に上がってくるという革命的な出来事を経てきた。

それは重力との出会いだった。

魚類が背骨を左右に揺らして得た推進力は、両生類では左右水平に飛び出した手足をはいつくばらせるようにして前進した。

爬虫類になると体幹に対して垂直に手足を使うようになり、重力に対して、より支えやすい形状となった。

これは四足の哺乳類にみられる形状だ。

ヒトにいたっては、二足歩行によって体幹と足が一直線になった。

手の自由が利き、道具を巧緻に使用するにいたって、脳の発達は著しく進んだ。

こうした進化の過程をつぶさに観察すれば、それはまさしく環境への適応である。

地上に上がれば寒暖の気温差にも適応すべく鳥類や哺乳類は恒温動物へと進化を遂げた。

変温動物は冬季に活動できない。

一切の体の動きがフリーズしてしまう。

冬眠である。
間違えれば抵抗できずに捕食されるかもしれない。

過酷とも思える環境を乗り越え、なんとしてでも生き延びようとする。

これが生命の本質であり、進化こそ生命の喜びとするところである。

そのように解釈する沖ヨガにおいて、ただ単にポーズをとることだけでなく、適応力すなわち生命力を強化する方法が重要視される。

実際に何をするのか。

乳幼児がはいつくばり、そのうちハイハイするようになり、おもむろに立ち上がっていくプロセス。

これはまさに進化の過程の再演である。

この一連の過程を経て乳幼児は力強い二足歩行と生命力を獲得する。

ところが、この一連のプロセスを人為的に妨害した乳幼児、つまりハイハイをあまりさせず、すぐに立ち上がらせた乳幼児は、その予後が極めて悪いという実験データがある。

健康上芳しくないのだという。

それは動作を行っているときに、肉体的な鍛錬と、関連する脳の部位が活性化していることを表している。

進化の過程で脳は延髄、橋、中脳、大脳と上積みされる形でバージョンアップされてきた。

人間が他の動物と異なるのは、この最も外側を縁取る大脳皮質の発達である。

乳幼児は生物の進化の過程をたどりながら、その時代に相当する脳の部位を活性化しながら発達していると見ることができる。

つまり、はいつくばり、ハイハイをし、立ち上がる、このプロセスを丹念に行われなければ、脳の発達異常が起こっているとも限らない。

土台となるものが不十分で、その上位であり人間を人間たらしめる大脳の発達もままならないであろう。

強化法では、人間のさらなる可能性を切り拓いていくものであって、同時に生命としての過去にさかのぼり、土台となる原初的な部分の再構築を行うものでもある。

磐石の土台があって、上位の人間としての可能性も拓かれるというわけだ。

ハイハイをしてみたり、トカゲのような動きをしてみたり、飛んだりはねたり、野性味あふれる動きを行ってみる。

一見野蛮にみえるのだが、その心身に対する効果、脳機能的な効能は強烈なものがあった。

背骨ひとつとってみても、普段の日常生活では体に手足が生えていて、体幹とは隔絶した形で小手先の動きに終始していないだろうか。

ところがトカゲの動きを模してみると、背骨がダイナミックに波打つようになる。

しゃくとり虫を模してみる。

これは背骨が上下にダイナミックに波打ってくる。

日常ではまったく体験し得ない動きである。

身体運動の開発という観点から見ても、目覚しい成果が得られる。

脳の神経回路の開発という観点から見ても、案ずるより生むが易し。

実際、ダウン症などの知的障害児を対象に行われる療法に類似した運動法が著効を示しているという。

現在急増するうつなどの精神疾患に対する効果も見込めるのではないだろうか。

手押し車から腰のバウンド、四つんばいから思いっきりジャンプ、腰に紐をくくりつけて後からもう一人に引っ張ってもらう。その抵抗に対して全身、渾身の力で前進する。

手だけ、足だけといった一部分ではなく、丹田を中心として全身を協力するあり方を練りに練って練り上げていく。

単なるエクササイズにあらず。
局所的に過ぎず、有機的な動きを阻害するものでしかない筋トレの次元もはるかに凌駕している。

生命力強化法。

子どもたちの教育にも、情緒不安定な児童に対しても、全身をダイナミックに動かし、自らの身体の可能性を引き出しきることは、心身にわたって有意義ではなかろうか。

詰め込み教育、知識偏重の弊害を克服するのは、身体しかない。

生きる力の喪失、無気力、不機嫌、生きづらい社会、閉塞感が募る社会、弱者に厳しい社会。

もっともかもしれない。

しかし、そんな時代だからこそ、進化の可能性が開かれているのではないだろうか。

困難な環境から逃げず、それを乗り越え、適応し、生き延びる。

その先にこそ進化が待っている。

腐るも、咲かすも、自分次第。

どうせなら人間として、さらなる進化を遂げようではないか。

力強く、しなやかに

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2010 11/10 (水曜日)

酵素断食コース始まりました

かおりです。

先週から始まった酵素断食コース。

酵素たっぷりのサラダやジュース、フルーツがついています

そもそも、「酵素」って何なんでしょうか?

体質改善には、体にたまった老廃物や有害物質を取り除く

=「デトックス」することが必要です。

デトックスすることで血液がきれいになり、酸素や栄養素を全身にスムーズに

運んでくれるので、細胞レベルで生き生きとしてくるんです?

ストレス、運動不足、暴飲暴食などでたまった老廃物をデトックスするには

酵素が必要です。

酵素は、化学肥料・農薬・加工食品・熱などによって壊されますので、現代人

は不足しがち?

不足すると代謝が落ち、肥満や老化、あちこちに不調が起きやすい体質になっ
ていきます。

普段は食べものを消化吸収することで使ってしまっているこの酵素を

サラダやジュース、フルーツで上手に取り入れることによって、

効率よくデトックスができるというわけです

金曜(夜)
カブとりんごのサラダ+酵素ジュース

土曜(朝)
低温蒸しサラダ+野菜ジュース+フルーツ

土曜(夜)
きんぴらサラダ+野菜スープ

日曜(朝)
豆腐サラダ+人参生姜ジュース+フルーツ

日曜(夜)
半減食

月曜(朝)
普通食

というメニューです。

かぶさらだ.JPG

新コースのレシピ、次回ご紹介しますね

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2010 11/1 (月曜日)

梨ゼリーのレシピ

かおりです。

今日から11月に入りました。

ひさしぶりの晴天で、今日お帰りのゲストの方々の心もよりいっそう晴れ晴れとしていた

ことと思います

今朝のデザートは梨ゼリーでした。

梨の種類で幸水、豊水はよく知っているのですが、今年の秋は「新高(にいたか)」

という種類をよく見かけます。

大きくて味もしっかりしていて、ゼリーにするとお砂糖なしでも充分な

甘みがあります。

梨ゼリーは今日で最後でしたが、レシピをご紹介するのでおいしい梨で

作ってみてください。

<梨ゼリー>ココット皿8個分

なしゼリー.JPG

梨…3個(1/8個は細かいみじん切りにする)

ゼラチン…2本

1.梨をすりおろし、果肉とジュースに分ける。

2.ザルでこし、果肉大さじ4とジュースをあわせて500mlとり、
 アルミ以外の鍋で火にかけ、ふつふつさせる。
(梨の成分には、たんぱく質を分解する酵素があるので生のままだと
ゼラチンで固まりません。)

3.溶かしたゼラチンとみじん切りの梨を入れてよくかきまぜ、ココット皿に
入れ、冷蔵庫で冷やします。

(冷蔵庫に入れる前にデラウェアを入れています。)

寒天やくず粉を使ってもいいですね。

前述したとおり梨にはたんぱく質分解酵素があるので、韓国では焼肉の

タレに梨のすりおろしが入っているそうです。

ユッケは生の牛肉に薬味調味料を和えたものですが、梨の絞り汁またはみじん
切りを一緒に和えたり、せん切りにして添えます。

プルコギは牛肉の薄切りを甘辛いタレに漬けこんで焼いたもので、タレに梨
をすりおろして加えることが多いそうです。

そうすることで、お肉の消化にかかる負担を軽くしているんですね。

「ぺスッ」という梨のデザートもあります。??

ペスッとは、梨のシロップ煮。梨に粒こしょうを詰め、生姜の煎じ汁で煮たデザートです。

スパイスが入ってるデザートが好きなので一度食べてみたいな。

薬膳で梨の効能を勉強しましょう

梨が採れる秋は「乾燥」の季節

秋の時期を大きく「温燥(おんそう)」と「涼燥(りょうそう)」の2つに分けています。

温燥は残暑で日中はまだ暑く感じ、空気が乾燥している時期のこと。

涼燥は10月中旬くらいから。日中も空気が冷たく感じて肌寒くなる時期のこと。

梨は、水分が多く胃や肺を潤してくれます。

体の熱を冷ます「涼性」の性質を持つので、温燥の時期にはそのまま生で

食べるのがおいしいです。

涼燥の時期や冷え性の方は生で食べるよりもシナモンなどの温性の食材を

使ってコンポートやジャムにした方がおいしく感じるのではないでしょうか。

その他にも

・タンパク質の分解を促進する消化酵素

・抗癌作用をもつフライボノイドやポリフェノール

・糖尿病患者への代替甘味料となるソルビトールなどの成分

・食物繊維が豊富で整腸作用

があります。

いずれにせよ、旬の果物はジューシーでおいしいです。

りんご、梨、ぶどう、みかん、柿、イチヂクなどがぞくぞくと出回っています

そのまま食べたり、ちょっと一手間加えたりして思う存分秋の味覚を楽しみましょう ?

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  • お手軽プラン

    2泊3日 32,340円

  • 基本プラン

    3泊4日 48,510円

料金には、宿泊、食事、面談、マッサージ、カッピング、温泉、講座、ヨガや瞑想などが含まれています。

空き室状況&ご予約

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