人間にとっての自然とは何か、これを追い求めることが真のデトックスを、ひいては人間の健康と幸福に寄与するとの確信を持ち、今まで筆を進めてきました。
そして、生命の土台となる食事の問題は避けて通れないことであるとの認識から、ここ数年、研究を行ってきました。
しかし、つくづく人間にとっての自然食とは何か、というのはとても難しい問題だと感じています。
コアラならユーカリの葉を、パンダなら笹の葉を、単品で何千年も食べてきたのですから、今さら自然、不自然の議論も起こってこないでしょう。
ところが、人間は長い歴史の中で多種多様なものを食べてきました。
いろいろなものを食べてきたからこそ、複雑で幅広い思考を身につけ、高度な文明を発達させてきたといえるのかもしれません。
一方で、人間特有の病気の原因になっていたかもしれません。
先人の研究成果の中に、人間にとって自然な食のあり方で指標とされるものに歯の本数があります。
歯の構成比から、肉食、菜食、穀物食の比率を導き出したものです。
また腸の長さによって肉食、菜食いすれに適しているのかを計る方法も提唱されてきました。
精神論や観念に寄らない、きわめて科学的、理性的な方法だと感じています。
それと同時に、それだけでは解決できない現代の複雑な疾病構造に思い至ります。
食に関わるここ数十年の、顕著な変化として、食品の精製度が飛躍的に進み、特に糖質においては、あきらか
に人体に害になっているということです。
人間にとって何が自然であるかを計る指標として、それによって病気になるか、ならないかというのも重要ではないでしょうか。
精製された糖質は、その吸収率の高さゆえ急激な高血糖状態を招きます。
これが血糖値をコントロールする膵臓や各種内分泌系に与える影響は想像に難くありません。
現代人に蔓延する低血糖症や糖尿病がその典型的な例で、自然を逸脱した人間の食生活に対する警鐘といえましょう。
また慣行農業でつくられる野菜には農薬や偏った化学合成肥料が大量に使われていることも問題です。
土壌汚染も進み、野菜本来持っていた味が失われていることに気づく人は多いですが、当然栄養が損なわれていると考えるべきです。
肉や魚も同様で、飼育や養殖の方法に、いかに人為的で不自然な方法が導入されているか直視しなければなりません。
食材に対する冷徹な視点を欠けば、内実の伴わないうわべだけの健康食に終始してしまいます。
飽食の時代における「栄養失調」という逆説的と思える現象が、すでに日本を巣食っています。
野菜を食べればいい、という単純な問題ではなくなってきているのです。
ここで生理学的な観点で、人間にとって自然な食のありかたを二つ挙げてみます。
・食後の血糖値を上げ過ぎないこと
・バランス良く栄養をとること
これは食材の選び方から、調理法、食べ方に至るまでの再考を促すものです。
さらに人間的な観点で、人間にとって自然な食のありかたを提案してみたいと思います。
「つながり食」です。
今を生きる人間を中心に、三方向のつながりを意識してみます。
上下のライン、つまり天地とのつながりです。
それは天は気候、地は土壌を表し、その土地の食材を、旬にいただくという原初的なあり方のことです。
左右のライン、すなわち同時代を生きる人間同士のつながりを表しています。
食材の生産者や調理する人、さらには食卓を囲む人々との心の交歓を重視する精神的なあり方のことです。
前後のラインは時間、歴史です。
今を生きる人間の前には数え切れないほどの先祖がいます。
その人たちの苦労の上に、今こうして健康と幸福を願える時代に生きていられることを感謝することです。
また先祖が歩んできた歴史をみることで、何をどのくらいどのようにいただけば良いかおのずとわかってくると思うのです。
さらに、これから先の世代、子孫に対しても、負の遺産を残さないために今何ができるかを考えることも、人間としての自然性を考える上ではずせない視点であると考えます。
人間は、ただ機械的に食べ、糞をするだけの無機的な人糞製造機に終始したいと誰も思っていないでしょう。
他の生命をいただいて今こうして生かしていただいているのであれば、犠牲になった生命に報いるためにも、価値ある生き方をしたいと思っていいはずです。
このように空間、時間、人間のつながりに思いを馳せることができるのが人間だけであるに違いありません。
空間に対する畏敬
時間に対する感謝
人間に対する謙譲
そこに人間としての自然が、もっと言えば人間として最も輝けるあり方があるのだろうと考えます。