する贅沢から、しない贅沢へ

2010 9/13 (月曜日)

火が教えてくれること

こんにちは、こはりです

この書き込みが、どうやら100回目となるようです。

ちりも積もればといった感じでしょうか。

乱筆乱文を重ねてまいりましたが、その間にも「いつもブログ見てますよ」「更新期待しています」とゲストの方に声をかけていただく度にとても励みになりました。

コメントを頂戴することもあって、恐縮とうれしさがこみ上げています。

さて、昨夜の瞑想では「トラタク瞑想」というのをやりました。

サンスクリット語で「凝視する」という意味ですが、ろうそくに火をともして、その火に集中するという形で行いました。

最後の夜にぴったりの、ロマンティックで、少し郷愁を誘うような時間が流れました。

火の存在が人間を人間足らしめたという文化人類学者の見解を何かの本で読んだ記憶があります。

他の動物が火を利用することがないのを考えれば、それも言いえて妙でしょう。

調理においても火をもって加熱することで、消化を容易にしエネルギーの胃腸から頭脳集中へと変化し、人間が高度な文明を築く要素となった面もあるでしょう。

いずれにしても、火は人間に多大な恩恵を与えました。

キャンプファイヤーという行為も、人間のDNAに刻まれた原初的な感覚を呼び覚ますものかもしれません。

火を見ることで落ち着くというのも、危害を加えんとする猛獣を遠ざける役目を担ってきたこととも無縁ではないでしょう。

「トラタク瞑想」では「ただ見ること」に専念しました。

これは人間の原初的なあり方もきっと一つの物事に専心する「シングルタスク」であったことでしょう。

現代は利便性、経済効率が優先される社会です。

同時にいくつもの物事をこなせることが必須条件であるかのようです。

しかし、そうした「マルチタスク」であることが、心を疲弊させ、ひいては「うつ」に代表されるような、いわばフリーズ現象を引き起こす原因になるのではないでしょうか。

瞑想的な境地として「マインドフルネス」という概念があります。

今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には捉われないでいる心の持ち方、存在の有様、と定義されます。

私たちは日々の生活どれだけ“今”を生きているでしょうか。

食べることでもそうです。

新聞を読みながら、テレビを見ながら、仕事の事を考えながら、食べていないでしょうか。

味わっているようで、そのことに集中していない。

どれも中途半端に終始している。

食べ物が口に入り、噛み砕かれ、舌の上でその味を知覚し、のどを通り抜けて、胃で消化されていく。

その過程をつぶさに感じることで、食物本来のおいしさや食感に気づき、またそうであるからこそ、栄養を完全に吸収し、残滓を排泄しきる機構が働くのではないでしょうか。

「中途半端」というのは、とてももったいないことです。

例えば映画を観に行ったとして、その映画の時間中、何度もトイレに席を立ち、そのストーリーがほとんど理解されない。

その映画を人生とすれば、日々の生活どれにも専心することなく中途半端に過ごすことで、人生を味わいつくすことができていないかもしれません。

そうした潜在的な「むなしさ」が、死を苦しめ恐れさせるのではないでしょうか。

全身を動かしきった先に、深い睡眠があるように、生ききった先に、静寂という死が待っているのだと思います。

一度きりのこの人生、輝かせるためにも、今宵、火をともしてみてはいかがでしょう。

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