【病気は身体からのメッセージ】
「意識と身体の関係」
通常、自分の思考的な働きである意識は、自分の身体を自分の思い通りに動く物だと思っています。しかしどこか痛かったり、苦しかったり、思うように動かなかったりすると病気だと言って、薬を飲んだり、注射をしたり、治療をしたりしてなんとかその症状をなくそうと努力します。
しかし、その時身体のなかで何がおこっているのかについて私たちはいったい何を知っているのでしょうか。
風邪を引くと普通の人には寒く感じなくても寒けがして、身体を暖かくしようとします。これは風邪のウイルスが熱に弱く、体温を上げることにより、ウイルスの活動性を弱め、ウイルスが身体の奥深くに進入するのを防止するためです。また、咳が出るのはのどや気管支に付いたウイルスを体外に出そうとする働きですし、鼻水が出るのは鼻粘膜に付いたウイルスを出そうとする働きなのです。
われわれが気づいていなくても身体は常に自分の身体を守るために、素晴らしい適応力を発揮して最も良い判断を下しているのです。これらのことは身体のことをよく学んでいると、身体の内部では信じられないほどたくさんのことが起こっており、それらがまさに絶妙のバランスで調整されていることがよくわかります。
「自分の身体を信頼しよう」
古くなって腐ったものを食べたらどうなるでしょう?敏感な人ならおかしいと思って吐き出すでしょう。鈍感だったり、喰い意地が張っていれば、少し変だなと思ってもそのまま食べてしまうかもしれません。そしてその腐った食べ物は胃を通過して腸に入り、いよいよ身体に吸収される段階に来ます。しかし、正常な働きをしている腸なら、吸収していいものか、しないほうがいいものかの判断を下し、悪いものなら吸収せずに早く腸から排除しようとします。それが下痢なのです。正常だから、元気だからこそ下痢が出来るのです。
身体が自分の身体を守るために下痢をしているのに、それを病気だから止めなければいけないと思い下痢止めを飲むのは、意識の働きの傲慢であり、自分の身体への無理解なのです。
薬にももちろん必要なものもたくさんあります。
しかし、身体を自分の都合のいいようにだけ使おうという間違った考えのものに、薬を飲むのは問題です。
日常見られる病気と言われるものの9割以上は、身体が自分で何かを解決するために症状を引き起こしているもので、自分で何かをするのなら「いかに病気の目的に協力するか」なのです。
必要があって熱が出ているのなら、冷やすのではなく、身体を暖かくして暖かいものを飲んで、熱を補ってやると熱が早く下がります。
ただし、病気には進行状況に応じた対応が必要なので、ただ熱が出たら温めればいいといかないところが難しいところなのです。同じ方法だけやっているとかえってこじらせてしまうこともあるので注意が必要です。
「病気は身体からのメッセージ」
このように考えてみると病気とは、自分の身体に必要があって起こっているものだということがわかると思います。
ずっと身体に無理をかける生活をしてきて、これ以上続けると回復不能なほどのダメージになるというときに、痛みや不快感のような症状によって身体が自分の意識に警告を与えているのが病気と言われるものです。身体はこうしてほしいというかわりに、症状で我々に訴えているのです。
肩が凝るという感覚があるから、背伸びをしてみたり、首を回してみたり、肩をたたいてみたりします。こうしてもっと仕事をこなさなければと思っていても、無理をしないで少し休みなさいと身体が意識に教えてくれているのです。
そんなことはわかっているが、仕事が忙しくてそうも言ってられないという方も多いかもしれません。もしかしたらそんな忙しい生きたか自体に無理があり、もっと自分らしい無理のない生き方をしようという身体からのメッセージなのかもしれません。身体は我々の一番身近な自然といってもいいかもしれません。その身体が自然な働きからはずれてしまった意識に大切なメッセージを与えてくれているのです。
効率や生産性だけが評価される今の社会で、周りの期待に沿うために、過剰に適応して頑張りすぎ、自分を見失い身体からのサインを受け取れずに病気になる。そんなことにならないように、身体の声を聞く時間を持つのは、大切な先行投資なのではないでしょうか。
「いま・ここ」が大切
現代のような生産性と効率優先の社会では、常に何かをしていないと、その人に存在価値がないような、そんな錯覚を抱かせます。子供なら学校へ行って頑張って勉強して、良い成績をとる。大人なら会社へ行って仕事をして、たくさんお給料をもらってくる。そのこと自体は悪いことではなくても、そのことだけに囚らわれて、常に頭がそのことで一杯になってしまうと、大切な身体からのサインがキャッチできなくなってしまいます。
何かをしなくては、私たちは存在してはいけないのでしょうか。何もしてなくても、私たちは生きているし、身体の中では信じられないほどたくさんのことがうまく進行しています。
たまに意識的に「何もしない時間」をもつのは「する」ことに縛られず、「これもしなくては」「あれもしなくては」と思うことなしに自分の存在と向き合う時間を持つ、ということです。
私たちは、毎日の生活の中で、「いま・ここ」に生きている、ということをあまり意識しないで暮らしています。例えば歩いている時に、私たちはほとんどの場合、他のことを考えているか、目的地に着くことを考えています。歩くというのは「どこかに着く」ためだけのものだから無駄なもので、早くすませたほうがいい、その間我慢して他のことを考えていよう、という感じでしょう。
身体の中では歩くだけで実にたくさんの心地よい刺激が発生しています。足の裏も股関節も内臓もマッサージされているのです。歩くのが身体にいいというのはこのためです。
しかし、私たちは歩く快感をしみじみと味わうこともないし、刻一刻と出会う風景を味わうこともなく、どこかに到着することだけに意味があるかのように思っています。こんなことからも私たちがいかに多くの時間を「心ここにあらず」で過ごしているかがわかります。それは、本当に「いま・ここ」を生きていないということに他なりません。
「本当にあなたは自分の人生を生きているか」という問いは、他の人のいいなりになって不本意な時間を過ごしていないか、ということでもあります。と当時に、自分一人でいても、自分と向き合うことが出来ず、その虚しさを埋めるためにテレビをつけたり、しなくてもいい電話をしたり、暇つぶしのために週刊誌を見たりしているのではないか、という問いでもあります。
人生の歩みの一瞬一瞬に意味があり、それが生きているということなのに、いつも明日のために「いま・ここ」にいるということを味わうことなく、過ごしてしまうのは虚しいような気がします。
意識的に身体の声を聞き、自分は今、何をすれば気持ち良くて、何をしたがっているのか、ということに気づくことは、自分の人生を生きるということにつながってくるのです。
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