病気をすると、なんとかして治したいと、悩み考え、氾濫する情報に流され、時に鵜呑みにして、「はからい」や「とらわれ」が止むことがありません。
健康法にしても食事療法にしても、「べしべからず」の原理原則に貫かれ、人生がまったくそのためだけになってしまって、限りある時間をのびのびと生きられなくなってしまいます。
愛する家族と過ごす時間も、常に眉間にしわを寄せて、心ここにあらずで、楽しめるはずの時間も、背徳感にさいなまれるようでは、病気がまさに不幸の源でしかなくなってしまいます。
身に病あれど、心まで病ませない。
病気をしても、日々朗らかに生きたい。
誰もが願っていることでしょう。
しかしながら、日々繰り返される苦痛に、心が折れてしまうこともあります。
そんな自分をまた責めたりして、ますます笑顔が消えていきます。
病気と向き合うことは大切です。
自分を顧みる機会になるからです。
しかし、そこにとらわれて、生活すべてが、そのためになるのでは本末転倒ではないでしょうか。
「自分は病気である」ということばかりに心が占められるのであれば、「弱い自分」「治らない自分」ということばかりが強調されて、持ち前の素晴らしい生命力が萎縮されかねないのです。
心を病気から離すということが、次の段階に必要になってくるでしょう。
「自然法爾」
そう親鸞は言いました。
自力をすて、如来の絶対他力にまかせきること。人為を捨て、ありのままにまかせること。
その反対に、「闘病」という言葉があります。
重病にかかった人間の、果敢な尊い姿として小説やテレビドキュメンタリーなどで、人々の感動を誘うので、病気とは闘うものだということが知らずに植えつけられているところがあります。
自分ひとり自力で踏ん張る。
運命に抗い、歯を食いしばって闘う。
それで治れば良いのですが、敵を前にした人間の身体は戦闘的なホルモンである、ノルアドレナリンやアドレナリンが分泌されることが知られています。
血圧や血糖値が上がるストレスフルな状態といえましょう。
その反対に、愛し愛されることで分泌されるベータエンドルフィンやドーパミン、オキシトシンには免疫力を活性化させることが知られています。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、真理はむしろ「天命を信じて人事を尽くす」ではないでしょうか。
この肉体ひとつの自力のみで「とらわれ」や「はからい」の中、右往左往するのではなく、周囲に溢れる愛に気づき、大いなる安心感に、まず肩の荷を降ろしたところから、さっぱりとした心境で、まっすぐ日々の生活を営んでいく。
すでにありのままで愛されている。
病気であったことを忘れてしまう時間が次第に増えてくることで、「もはや用なし」と病気の方から立ち去って行く面もあるのではないでしょうか。
たとえ病気が治らなくても、それが人間としての価値を最高度に高めるものであれば、もはや排除すべきのではなくなります。
巷には様々な健康法が流布されています。
それぞれに効果を謳い、実際その恩恵にあずかった人もあることでしょう。
しかし、人間的な健康法たるものは、肉体次元のみに作用する単なる物理刺激に終始せず、最終的には「人間性の回復」とも言うべき、偉大な事業に直結してこそでしょう。
この際、方法は何でも良いのです。
「弟子に準備ができた時、師は現れる」
心を朗らかに保ち、引き寄せられた縁を活かしていけば、おのずと道は開かれることでしょう。
健やかで良し、病んで良し、死んで良し、そんな大いなるものにゆだねた安心立命の境地で、日々朗らかに生きていきたいものです。
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