やすらぎの里養生館

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養生と行

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縦軸には快と不快、つまり「生命の法則」にかなった生き方をしているとき人は快を、そうでないときは不快を感じるのだということを表し、横軸には自然と不自然、つまり「自然の摂理」に沿った生き方を自然、そうでないときを不自然で表しました。

左下のゾーン、不快にして不自然を強いられたとき、人間の体は生命力、自然治癒力を減退させ、不調や病気になるのだろうと考えました。

苦痛、有害であって、避けるべきものと考えられますが、現代社会はおよそ自然から乖離し、不快が避けては通れないものもあり、慢性病がますます増えていくのも理解されます。

医療に目を向けても、現在主流となっている西洋医学、特に最先端の医療は、身体に対する侵襲度が高く、人工的な手法であるために、むしろ生命力を減退させ、表面的な症状を薬物で抑えることはできても、心のある人間を癒すことなど望むべくもありません。

その反対に右上のゾーン、快にして自然な状態というのは、生命力が旺盛となって、いきいきとして自然治癒力が最大限発揮される状態と言えます。

生活のあらゆる面で、快にして自然なあり方を追求していくことは、よりよく生きるための王道ということができます。

しかしながら、極めて不自然な現代社会に身を置きながら、これを求めるのは至難の業で、理想状態であっても、すべて実践することは不可能であるし、その必要もないのだろうと思います。

この世に生を受けた不完全な人間存在にとって、上記の対極とは別の、もう一方の対極こそ重要と考えます。

左上のゾーン、快にして不自然なあり方というのは、一言で言えば「誘惑」そのもので、食べ物で例えれば、「おいしいけれど体に悪いもの」と言えます。

それは魅惑的で中毒性、依存性を孕んでいます。

精製糖、化学調味料、酒、タバコ、ギャンブル、極致に麻薬が挙げられるでしょうか。

これを完全に排除することは理想であっても、それを実践できるほど人間は完全ではないとも考えているので、合法的な方法であれば、付き合い方次第で許容されるのではないかと考えています。

つまり、この「快ー不自然」は、中毒、依存を深めていったとき、身の破滅、生活の破綻があるわけですが、一方で、人間は何かに依存してバランスを取らざるを得ない時期があることも認めざるを得ず、段階的に右下のゾーン、「自然ー不快」に代替していく必要があろうと考えます。

不自然で快であるものを、自然で不快であるものが代替しうるかという疑問を持たれるかと思いますが、これは表裏一体であって、人間の業を端的に表すゾーンと言えます。

「不快ー自然」は、古くは「行」今で言えばトレーニング、鍛錬でしょうか。

我慢や辛さが伴いますが、達成した時の「充実快感」は一種の中毒性を孕んでいます。

断食もまさにこのゾーンで、こうした「良質なストレス」は「タイミング」が合致し、適した「刺激量」であれば劇的な効果が得られるものです。

一方でリスクも否めず、「タイミング」と「刺激量」を誤れば、かえって心身を傷つけ、生命力を削いでしまうこともあるでしょう。

さらに、この「不快ー自然」つまり「行」を成就させるために必須の条件として「心構え」があります。

例えば、遭難して食糧の尽きたとき、数日で人は衰弱死する可能性があります。
一方、断食はあえて「食べない」と決めて行う行為であり、場合によっては1か月生き延びることも可能となります。

この違いはまさに「自らすすんでやる」のか、不覚にもその状態に陥ったかの違いでしょう。

水を浴びるのもそうです。

不意に水を全身にかけられたら心臓麻痺を起こす危険性があります。
一方で、自らすすんで浴びる滝行や水垢離、寒中水泳などは、強力な心身強化法となります。

現代に生きる我々が、より良く生きるということは、右上の理想状態、「快ー自然」を目指しながらも、「快ー不自然」の快楽に堕しがちな心身を、「不快ー自然」の良刺激で軌道修正しながら歩んでいくということでしょう。

さらに、今ある病気との向き合い方においても、右下のゾーン、「不快ー自然」と捉えるべきと考えます。

とかく、病気は苦痛であるために、左下のゾーン、「不快ー不自然」排除すべき悪以外のなにものでもないと思いがちです。

しかし、病気を悪と見ることは、その病気になった自分や影響を及ぼす周囲の環境、今までの生活習慣などを責めることにつながり、ますます自己否定をつのらせ、生命力が減退こそすれ、自然治癒力が旺盛になることはないでしょう。

病気を、学びの契機、心身を向上させるための課題と置き換えるならば、すすんで病気と向き合えることができるようになり、たとえつらい症状があっても、それを良刺激として、治癒に結びつける生命力も喚起されることでしょう。

生きているという事実は、生き続けようとする生命力の発露そのものであって、常に治ろうとする方向性が示し続けられているということでもあります。

症状を治癒反応として捉えれば、それが生命を奪うものではなく、むしろ力づけるものであることが理解されます。

心配や不安などの心が、むしろ生命にブレーキをかけているのが、人間の人間たる病み方と言えます。

人間にとって進化向上の方向があるとすれば、病気のような一見否定的な事柄をひっくり返して、全肯定全活用していくことにあるのではないでしょうか。

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