今日は入所面談だった。
ある指導者のもとで、「あなたのその病気は今までの生き方が悪かったからだ」と徹底的にやりこめられたという。
当初はひどく落ち込んだそうだ。
それでも奮い立たせ、今までの心がけを反省し、生活を改め、生き方の見直しを図っているという。
「今までたくさん肉を食べてきたでしょう」
いかにも定型の文句だが、当人はマクロビオティックを学んできた経緯もあり、幼少時から他と比較しても特に肉食であったわけではない。
いつも思うのだが、その「理論」通り完璧な人などいるのだろうか。
理論を振りかざし、大上段から叱りつけるのは一番単純なことで、最も安易なことだと思うのです。
叱られた本人は気落ちし、過去を悔やみ、病気になった自分を責めることになる。
それで病気が治るのですかと問いたい。
もっとも本人にも素養があったわけで、一般的には外科手術が選択される器質的な疾患ではあるが、こうして代替療法に出会った。
縁あって出会った師の指導の下、信じる道を進むのも気高く尊重されるべきものだ。
一縷の望みを託し、努力することで治る可能性も否定できない。
ただ現在、日常生活に支障をきたしている。
毎秒自分を責め、さいなみながら、さらに常に症状と向き合わざるを得ず、悪化するのではないかという不安、このままでいいのかという心配で、ひと時も気の休まることがない。
それなら手術を潔く受け入れ、症状をとってしまった上で、もちろん代替療法の継続や生活の改善を実践することもできるわけです。
今この瞬間のQOLを向上させ、その恩恵を他に還元させていく生き方ができれば、よっぽど柔軟で広い生き方だと思うのです。
とかく自然療法を信奉する者は西洋医学に否定的で、独善的で一方的に過ぎるきらいがある。
指導者の指導も、言いっぱなしで無責任なもので、たとえそれが善意であろうとも、結果としては人を貶めているようにしか見えない。
もういい加減、病気を悪とみなし、敵対視し、病人をさげすむのはやめようと言いたいのです。
敵をつくることは、たやすい。
それと戦い、排除する。
さんざん人類は繰り返してきた。
今も世界各地で争いがやまないのも、一人ひとりの、その心が映し出されているにすぎないのではないか。
地獄極楽胸三寸にあり。
敵をつくるのも自分、仲間にするのも自分。
恐れから生まれた概念を手放し、愛に基づいて解釈する。
病気の原因も、その病気すらも。
忌避し、敵視しがちなものを、対峙することなく、こともなげに軽く飛び越えていく。
今この瞬間を
「恐れ」ではなく「愛」を選ぶ。
僕のつかまえた「養生」の極意がつたわり、今この瞬間をのびのびとめいっぱい生ききることができたなら、冥利に尽きるというものです。
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