悩みがある。
「専門は何ですか?」と問われて、胸を張って断言できるものがない。
どれも広く浅く把握しているが、ひとつを極めているわけではない。
バランス重視とも言えなくもないが、際立った強みがなくどこか根無し草のような一抹の不安を感じることもある。
そもそも今までの探求の原動力とは何だったのだろうか。
「より良く生きたい」
そんな思いがあったに違いない。
大学卒業後、治療家を志し、肉体的な健康について思索を深める中で、生活すべてを総合的に整えていく必要性を感じ、やすらぎの里の門をたたいた。
持ち前の偏屈さと軟弱さが手伝って、自力で強健に突き進むことができなかった。
さらに多くの病める人々と対話する機会を得て、理想と現実に挟まれた抜き差しならない心情を聞き及ぶにつれ、弱者の視点に立ち、現状を肯定する思想にひかれていった。
先日、「今、養生館で伝えたいこと」という文章をしたためた。
僕が出した答え。
「より良く生きる」とは「恐れ」を解き放つこと。
治療家として身を立てて10年、いよいよ僕は治療家の末席からも脱落したようだ。
「病気は治すものだ」という思いがどうもわいてこない。
病気とはBody、Mind、Spiritを横断しているもので、好意的にその意味を見出してしまう。
「治さない治療家」
こうなるともはや存在意義が危ぶまれる。
現在は、方便として手技や体操、呼吸法、セルフケア法を駆使する。
これも功罪相半ばしている。
期待する「内観の契機」になることもあれば、肉体偏重の視点に固着させる可能性もはらんでいる。
その用心深さが、僕が専門性を欠いた淵源だろうか。
以前からいわゆる臨床において治療家としての実力の伴わない僕は治療家志望ではなく宗教家志望だと嘯くことがあった。
皮肉にもそれが実現しつつあるのだろうか。
本音と建前の使い分けがいまだに定まらず迷走している。
その不器用さが、かえって角を立てずに丸く見せて、業界で生き残れているのかもしれないのだけど。
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