父方は薬学の家系、母方の祖父は工場労働者でしたが毒ガスを吸って労災死しました。
薬に対する嫌悪感は、人一倍あったことでしょう。
この業界に入った理由もその一つかもしれません。
当初は西洋薬反対の論陣をはっていた僕も、自身の病気の経験、救急車にも乗りましたし、妻が難産で死線をくぐったり、娘がこども病院に入院した折に重篤な子供たちを目の当たりにしたり、西洋医学的処置があって何とか生き延びているような人たちを現場で多く見るにつけ、考え方が次第に変わっていきました。
「人は寿命で死ぬ」と信じることにしたのです。
だから、人は病気でも死なないし、副作用でも死なない。
すると、自分にも、人にもやさしくなれたように思います。
その人にとって必要な時には使えばいい、必要なくなれば手放せばいい。
まったく使わなくてもいい。
使い続けたっていい。
とかく、手術や薬の副作用を告発し、批判する論調があります。
「症状を抑えるだけで、根本的な治療にはならない」
「有害なので使ってはならない」
良く効く薬ほど、たしかにそうなのかもしれません。
しかし、舌鋒鋭く恐怖を煽るだけで、現在やむなく使用している人たちに対する配慮、愛に欠けた論調には首をかしげざるを得ないのです。
西洋医学にしろ自然療法にしろ、それは患者を救いたい、楽にしてあげたいという、愛情から出発していることに変わりはないでしょう。
動機こそがすべてなのだと思います。
功罪相半ばする医薬の、良い面を引き出すのも、毒を薬に変えるのも、どのような心境で向き合っているかにかかっているでしょう。
西洋医学は対症療法であるという批判があります。
自然療法や根本治療を望まれる方は特にその思いが強いようです。
しかしながら、対症療法もまた意義のあるものだと僕は考えます。
苦しみが激烈で、生きることがままならなくなるようなとき、苦しみを抜くことで、失われようとした命を救うことができます。
本来、病気は生命のバランス回復機能であるので、それ自体悪いことであるとは思いませんが、不自然きわまる社会で生き延び、疲弊した心身は大きく動揺しており、その悲鳴もまた激しいものとなっています。
不自然生活で自力が弱化しているところに、反応が激烈となれば、多少の人為的な方法を用いる必要も出てくるということです。
もちろん人間としての自然性を回復し、本来の状態を取り戻すことが根本的治療になることは言うまでもありませんが、不自然きわまる現代社会で、なお折り合いをつけながら生きるということは、人類の生み出した医学の功罪を理解し、その恩恵を受けることなのでしょう。
対症療法といえども、そこに「楽になってほしい」という純粋な思いから施されるのであれば、単なる物質的な治療ではない、心通った人間治療が成立するはずです。
人と人との間で交感される治療行為においては、もはや対症療法と根本治療の垣根はなくなっているといえるかもしれません。
つまり、動機が重要であるということです。
治療法を選ぶ主体である私たちにおいても同様です。
症状の消失を逃避の目的としてではなく、前向きな好循環を生み出す契機とすること。
症状を隠し、以前となんら変わらず放埓、不機嫌な生活を続けるのでなく、取り戻した元気を、笑顔や感謝、他者への愛に振り向けることができれば、むしろ立派な根本治療ではないでしょうか。
日々、悪化する症状と向き合い、さらに薬の恐怖までも背負わされて、孤独な夜に涙を流しているあなたの味方になりたいと思っています。
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