食事について、運動について、あらゆる生活習慣について、なにかにつけて短所ばかりに目をつけて、批判ばかりしている。
ここまでくると、その人の内に募る「満たされない思い」をひしひしと感じてしまう。
他を貶めることで、自分の優位性をたしかめている。
それによって一時的に満たされた感じがするのだろうか。
「いい加減」に物事を軽やかに受け止められたらどんなに楽だろう。
そうもいかない、過去のつらい体験があるのかもしれない。
人一倍勉強して、努力している。
それを隠さず、虚勢を張るものだから、鼻持ちならない人になってしまっている。
悪意はない、ただ不器用さが愛嬌にならず、ますます人を遠ざけ、周囲を敵ばかりにしてつらそうなのだ。
もちろん正論というものはある。
だけど、それだけでは解決しないのが現実で、世を捨て山ごもりでもして、孤高に清廉潔白の「聖」そのもので生きていくのならばまだしも、社会の一員として生かされ、多様性のある「俗」世間で生きていくときに、その信念の強さが仇となる場合もある。
「正しさ」が巡り巡って自分に向かう刃となる。
善悪、正誤、真贋、優劣。
人は賢くなるとジャッジがやまない。
ままならない現実に、他者を傷つけ、なにより自分を傷つけていることも気づかずに。
誰しも心の奥底に「恐れ」がある。
意識にものぼらないその「恐れ」に突き動かされている。
「死の恐れ」と「生の執着」は表裏一体で、悟らない限り、誰だって迷いの中にある。
こうして僕がこの文章を書いているのも、その人に自分の心が映し出されていたわけで、それに敏感に反応して、まさに批判的な筆致となって、翻って自分に言い聞かせている面もある。
健康法はあっていい、信じる方法もあっていい、ただ「方向性」は定めておくようにしたい。
自分にやさしく、人にもやさしく、そして世界にもやさしく。
「不完全」でいい。
むしろ「不完全」だからいい。
経験し成長することを目的に生まれた「不完全」な人間が、支えあうことを余儀なくされている、この「社会」に生きている限りは。
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