文化人類学者で明治学院大学国際学部教授の辻先生は
「スロー」という切り口から環境や文化運動をしている方です。
その先生の「スロー快楽主義宣言!」という本を読み始めています。
とても共感できる内容なので、少し長いけど紹介させていただきます。
「消費の快楽を超えて」
快楽はお金で買うものだ、と考えるようになったこと。
そしてそのことに何の疑いももたなくなったこと。
まずこれがぼくたちの時代の大きな悲劇だ、とぼくは思う。
そればかりではない。
お金で買える快楽がありとあらゆる方法で飾り立てられ、宣伝されて、まるでこの世の中には快楽が満ち満ちているかのような幻想が作り出されている。
ふと見ると、ぼくたちの家庭や近所や地域はひからびて、ますます醜く、つまらない場所に成り果て、ぼくたちは、かつてもっていたはずの自前で快楽を生み出す能力を失って、快楽の消費者に成り下がっている。
愉しさは、もう家庭や、家の裏山から湧き出るものではない。
それは、娯楽産業の手に握られている。
楽しさを求める人は新聞のテレビ欄を見て、情報誌のページをめくり、しばしインターネット上の娯楽の海の中を泳げばいい。
おいしさはもはやおふくろの味でも、自慢の郷土料理でも、旬の野菜でも、時がたつのを忘れて大切な人と共に囲む食卓でもない。
それはむしろ、全国のショッピングモールの中にあるフランチャイズのファミレスの料理であり、情報誌に紹介されるグルメ料理店であり、添加物だらけのファーストフードであり、その半分が残飯として捨てられるパッケージツアーのカラフルなディナー。
ぼくたちはみな、愉しく、美しく、安らかに、おいしく生きたいと思っている。
そんな当たり前のことが、今でははるかかなたの世界のことのように思える。
「文化」は一連の施設の中に納められ、専門家たちの手に握られている。
そんな専門家を呼ぶのに、クリエーターという奇妙な和製英語がある。
英語ではそれは創造主、つまり神のこと。
そんな神をも恐れぬ名前と一緒に、ぼくたちは自ら愉しむという創造的な能力を一部の人たちにすっかり委ねてしまったらしい。
これが悲劇でなくてなんだろう。
だがその悲劇に気づいている人は少ない。
確かに、ぼくたちはさまざまな快楽を手に入れる自由をもっている。
世界に有名な日本のデパ地下よろしく、よりどり見どりの快楽が陳列されている。
その中から好きなものを選ぶ自由をぼくたちは持っている。
そして、それを購入する自由をもっている。
好きなものを購入し続けるために、働く自由をぼくたちはもっている。
そして、そうと望めば、もっともっと多くの時間を労働のために注ぎ込んで、もっともっと多くの快楽を購う自由をもっている。
いわば快楽を犠牲にして快楽を手に入れようというわけだ。
この文章を今作っている畑のこと、実家の自給自足の暮らし、ゲストの方と一緒に行った竹の子掘りのことを考えながら読んでいました。
本当の愉しさ、おいしさ、安らぎ。
やすらぎの里でできることってなんだろうか?
この本はゆっくりゆっくり読んでみたいと思います。
「今日のやすらぎ」
実家から送られてきた「草もち」
実家で作ったもち米と、裏から摘んだヨモギで作っています。
それに実家で作った大豆から作ったきな粉をかけて食べました。
食べた瞬間に実家の台所の記憶がよみがえってきました。
ふるさとは草もちの中にもありました。
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