仕事柄、健康にまつわる相談を受けます。
そこで、通り一遍の医学的なアドバイスをすることは、僕の仕事ではないように思いました。
なぜなら、病院で医師によって行われる方が権威も説得力もあるからです。
しかも、今や情報社会、いつでも必要な情報は得られる時代です。
みなさん知識や情報はたくさん備えてらっしゃる。
それでは僕に何ができるのか。
病気治療は医師の仕事とするならば、医師でない僕にできること。
それは、病人の心に寄り添い安心を与え、それによって自然に病気が快復していくようになること。
さらには、病気も不幸も災難にもとらわれない心が、互いに発露すれば、本質的な癒しになることでしょう。
そのために、まず率先して「祈る人」でありたいと。
病気よし、失恋よし、不幸よし、失敗もよし、
泣きながらパンを食うもよし、
大事なことは、そのことを通して、自分を人間らしくしてゆくことだ。
人のいたみのわかる人が、本当の人間なのだ。
これは坂村真民の詩です。
ふとしたことから、詩碑に出会い、その清らかさに感動したのです。
気になったので、略歴を調べてみると「午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活」と書いてありました。
僕自身、病に苦しんできました。
改善したかと思えば、悪化を繰り返す症状。
一喜一憂、気が休まることがありません。
不甲斐ない自分を責め、勢い世界を敵に回す悪循環へ。
症状や苦痛に出会ったとき、「症状即療法」と思い直してみる。
治るために表面化してきたのだと。
出てきたということは、もうすでに消えつつあるのだと信じきってしまう。
そして、その辛さも、人間としての深みをまたひとつ増すための修行なのだと胸襟を正して臨むまで。
とはいえ、弱く儚い罪悪深重の凡夫。
苦しい時は苦しいと、辛い時は辛いと、偽ることなく声に出して言えばいい。
さんざん苦しめば、自力の限界を痛感する時が来る。
そうして初めて、「祈り」に徹することができるようになりました。
「他力本願」
自分を投げ出した本当の祈りが。
それだけで、病気をした甲斐が十分にありました。
そのうち、苦しんでいた症状も薄紙をはぐように好転していきました。
今ならはっきりと言えます。
「人生に無駄なことはひとつもない」
養生は祈りであった。
周囲にあふれる愛に感謝し、自他の健康と幸福を願う。
祈りのない養生は、利己的な健康志向に終始してしまう。
見せかけの達成感と引き換えに、瞳がくすんでいく。
本当の健康は、奪うものでも与えられるものでもない。
たとえ病気であっても、それを受け入れ生きること。
ギラギラではなくキラキラ。
濁りをとって、光の射す方へ。
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