世の中には様々な健康法があり、百花繚乱、群雄割拠の様相を呈しています。
生理学や解剖学など、科学的な見地に基づき説明されるものもあれば、その反対に常識を超えた不可思議なものまであります。
多くの方法に共通した理論もあれば、全く相いれない正反対の理論を根拠にしたものも併存しているため、混迷を極めているのが現状でしょう。
いずれにしても、一定の支持を得られている方法には、多かれ少なかれ効果を実感できた人がいたということでしょうし、その陰に隠れて、効果を感じられなかった人、挫折した人も、同じくらいいたであろうことを冷静に見ておく必要もあるでしょう。
いざ、病気となり苦痛にさいなまれるようになって、より効果のある方法を求めるわけですが、自分に合った方法がすぐに見つかれば幸い、いつまでも見つからず、さ迷い歩く人もでてきます。
「最も有効な方法はどれか?」
一見すると理性的な問いですが、果たして重要な問いと言えるでしょうか。
個人的な見解を述べれば、「最も有効な方法」は幻想である、と最近は考えるようになりました。
そして、心身を好転させるために、4つの要素が不可欠であると思い至りました。
「想念の転移」「信念の強化」「自己肯定の表現」「安心感の醸成」
一度病気をすると、何らかの苦痛を感じることになります。
「つらい」「苦しい」これは当然の感情の吐露であって、否定されるものではありませんが、一日中、病気のことが頭から離れず、「苦痛から逃れたい」「どうすれば良くなるだろう」が常に鳴り響いてやまないということは、「病気」一色の人生になってしまうことを表しています。
そうしたネガティブな感情を手放し、一刻も早く健康的なイメージを持つことは心身相関の観点に照らしても必須のことでしょう。
そこで、なにか一つの方法に専念する意義が立ち上がってくるわけです。
一心に取り組むことの高揚感。
伝統宗教の題目や念仏に見られるものは、まさに「想念の転移」といえるでしょう。
絶望的な状況であるほど、たとえ数分であっても心が解放される時間があるということは「救い」になります。
ただでさえ体調がすぐれないのに、先の見えない病気である自分を直視し続けるということは、おのずと「情けない」「自分が悪い」という「自己否定」に陥っていくことでしょう。
また外部に原因を求めれば「他者否定」となって、気が休まることがありません。
こうした不幸感の伴う心身を弱らせていく悪循環から一刻も早く抜け出し、「治る」という実感を得るためにも、信じる方法を実践し、そして継続による小さな変化を逃さずにとらえることで、さらに「治る」「治りつつある」という信念を強化することです。
方法としては、自己肯定感を養うような、自分も他者も世界も責め裁くものでないことがふさわしいでしょう。
そこにはパラダイムシフトが伴いますが、それこそが病人が健康になるプロセスに他ならないと思うのです。
なにがなんでも自力で、「なんとかしなければ」という執着を捨てて、日々けなげに働くこの体を、ねぎらい、いたわるような気持ちで、手を当てること(手当て)がまず基本となるでしょう。
また同時に、周囲の世界から愛されていることを実感するために呼吸を使います。
息が吸えるという、ごく当たり前のことを、改めて立ち止まり味わったとき、「生かされている自分」「すでに愛されている自分」に否応なく気づかされることでしょう。
次第に絶対的な安心感が醸成されていきます。
こうして開かれる、生きてよし死んでよしの境涯は、何物にも代えがたい「やすらぎ」を感じさせます。
その反対に「恐れ」を取り除かないままに、いくら肉体に働きかけたところで、一時的な気休めにすぎないということでもあります。
あえて唯心的に言えば、それが生理学的に見て必ずしも良い方法でなくても、先述の4つの要素さえ満たしていれば、心身に好影響を与え、好転させることになります。
もちろん、実際は肉体次元への働きかけも、一種の刺激として生理的な変化を促すのですが、本能に生きる動物とは異なる、いかにも人間的な健康法というものを考察していくと、「こころ」の重要性に目を見張らずにはいられないわけです。
「病気治し」という病気に焦点を絞った、一見すると合理的な方法を超克して「鰯の頭も信心から」に表される、前近代的なあり方を、現代的に洗練させていくところに、これからの時代を見据えた統合的な健康法があるのではないかと考えています。
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