書店に行けば、健康関連の書籍や雑誌の多さに目を見張ります。
健康に関心のある人、あるいは不調を抱えている人の多さを物語っているようです。
また、団塊の世代が老境に入り、老いや病いというものが差し迫った課題であることも売り上げに拍車をかけている要因ではないでしょうか。
一方で、こうした本が並ぶことによる悪影響に思い至ります。
それは、「健康でなければならない」という強迫観念を植え付けやしないかということです。
「病気は治る」と冠されたそれらの本を眺めていれば、病気をしている自分はダメなのではないか、なかなか治らない自分は不甲斐ないと責めることになってもおかしくありません。
安易に提示される方法論、テクニックの数々。
この方法を行えば治る。
実際に行っても、はかばかしくないことだってあるでしょう。
年齢的な制約もあるはずです。
高度な技術を謳い積極的な治療に駆り立てる情報があります。
しかし、老化による病気であったならば、強引に抗うことで、果たしてその後の人生を有意義にするでしょうか。
健康や病気治しについて論ずる前に、「いかに死んでいくのか」という視点が欠かせないはずです。
これは元来、宗教の担ってきた分野ですが、高度経済成長を経た、いわば信仰なき世代は、経済力と科学力をもってして、病気は征服しうるものであるということを信仰している面があるのかもしれません。
誰でも死は恐ろしいものでしょう。
だからこそ、その恐れを安心に変える英知を、人類は積み重ねてきたのです。
病気も同様に、単に降りかかった災難としてとらえれば、それはまったく排除すべき悪でしかありません。
無病であることが幸せの条件とすれば、今病んでいる自分やその境遇を恨みこそすれ、幸福感というものを最期まで感じることはないでしょう。
病いを恨み、死を恐れ、苦悶の表情でこの世を去っていく。
そうした人々を、耳障りの良い健康書は皮肉にも量産しないかと危惧するのです。
賢明な読者ほど、真剣に実践し、ますます死を遠ざけてしまう。
それならいっそ「治る」などという幻想は捨て去ってしまったほうがいいのではないか。
今までも病み、これからも病み続けていく存在として、まず自分を認め、病気から学び、それを生き方に反映させていくことが、人生の目的であって、治るとか治らないは、まったく関係のないことであると。
たとえ治ったとしても、幻想さえ捨てていれば、「いつまた再発するか」という不安も起こらないでしょう。
不安を抱きながら生きることの不健康さは早晩再発の機会を与えます。
病気は不要ではなく必要なもの。
治るときに治るべくして治る、治らないときは何をしても治らない。
それは死が誰にでも訪れるように、当然のこととして受け止めるまででしょう。
世の中には様々な治療法があります。
縁あって信じる治療法を受ければいいでしょう。
激烈な症状を緩和する医薬という人類の知恵を利用しながら、その恩恵を自他に振り向け、今この瞬間が愛に満ちて生きられれば、それに越したことはないからです。
あらゆる治療を拒んで、自然な成り行きに任せるのも、その人の生き方です。
いずれにしても、病気に心がとらわれ、生活すべてが不安に染まってしまっては、せっかく病気をしても、し損なうばかりです。
発病当初、不安を隠すことはないでしょう。
誰しも弱い存在だからです。
時間が経過して、そのうち、対立していた病気と調和し、心が離れていく時が来ます。
「病気に左右される人生」から、「病気と共にある人生」への転換です。
病気をしたからには、その絶好の機会を逃さないことです。
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