大事をなすための力を与えてほしいと神に願ったのに
従順さを学ぶようにと弱い人になった
偉大なことができるようにと健康を望んだのに
より善きことができるようにと病弱さを与えられた
幸せになるために富を求めたのに
賢くなれるようにと貧しさを授かった
人々の賞賛を得ようとして力を求めたのに
神の必要を感じるようにと弱さを授かった
生活を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命だけを授かった
求めたものは何も与えられなかったが
願ったことはすべてかなった
こんな私なのに、声に出していわなかった祈りもすべてかなえられ
私は誰よりも豊かな神の祝福を受けた
(無名の南軍兵士の祈り)
巷間にあふれる自己啓発の世界では、巨万の富を得た華々しい成功者による、居丈高な言説に触れることがある。
思考は現実化するとか引き寄せの法則など、人心をひきつけてやまない成功哲学がある。
果たして成功とはなんであろうか。
幸福の定義とはなんであろうか。
富や名誉、外見など目に見える表面的な成功を切り取って、いたずらに憧れを抱いていると見誤ることがありそうだ。
表面的な成功は、一面的なものであって、その裏側にある負の側面を意図的に見過ごすことを積極思考と呼ぶならば、成功を礼賛するほどに、翻って、貧困や病気、不和、失敗は罪であり、怠慢の結果であるかのような印象を受ける。
前向きな思考をしていないからだとか、強く信じていないからだとか、勇気をもって行動しなかったからだとか、自分を、そして他人を責め裁くことになる。
たとえ信念の力で望みを実現したとしても、成功者は弱者を見下して良いという理由にはならないだろう。
反対に、今まさに不遇、試練のさなかにあっても、それを卑下する必要もないということだ。
神の祝福は、人それぞれ違った形であっていい。
ありのままで愛されている。
そう思わせてくれる祈りであった。
最近のコメント