やすらぎの里養生館

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超断食論~やすらぎの里が伝えたいこと~

数年前の大沢先生との対話を文字に起こしたものです。

印刷したものが、高原館の片隅に置いてありました。

マニアな人?には評判が良く、感想を頂いたり、コピーしてほしいという要望もありました。

いかんせん、身もふたもないような話もあり、誤解されてしまう場合もあると思い、門外不出となっていたものです。

今回あえて、養生館のホームページ上で公開に踏み切ったのは、数年前に話していたことが、こうして実を結びつつあるからです。

口述なのでまとまらず、表現がわかりにくいところもありますが、そのまま掲載します。

行間をくみ取っていただければ幸いです。

【超断食論~やすらぎの里が伝えたいこと~】
やすらぎの里代表 大沢

小針:断食すれば長生きする、ただ長生きする、省エネで寿命が長引いただけじゃないですか、それもどうなのかなと。長寿って言われても全然魅力を感じないんですよね。
大沢:そうだよね、短命よりはそっちの方がいいけどさ。
小針:ほどほどでいいと思っていますよ、みんな。

小針:今苦しんでいる病気が治るというのはひとつの魅力なんですけど、ただ病気も、もっと広い原因があるので。心の問題とか。
大沢:例えばその病気だって、ただ治ればいいっていうのじゃなくて、なにか気づきを促すために出ているサインだとすれば、そこから学ばなきゃいけないよね。断食をして治った、よかったじゃ、何のために病気になったんだろうと。
小針:そうすると結局、薬と一緒ですし。
大沢:同じだよね、漢方薬で治しているか、西洋薬で治しているのかとの違いでさ。病気になった甲斐がない。
小針:断食の生理学的な説明は出来ても、そこの回答がないんですよ。

大沢:断食の新しい可能性というのは、断捨離に興味を持っている人たちとか自己啓発セミナーに行っている人たちっていうのは、単に痩せようとか、単に健康にというんじゃない、今の人がみんな抱えている、すっきりしない感じというか、これでいいのかなという人たちの、具体的な回答になるんじゃないかと。結構、「こころ」系のことって、なるほどって思うけど、実際どうなのというところもあるからね。その点断食ってものすごく具体的な回答だと思うんだよね。頭で分かるだけじゃなくて、体でわかるというところがあるから、だからこそ、リピータの人たちは何度でもリピートしてきたり。

小針:断食業界を考えてみた時に「ダイエット」でも「病気治し」でもなく、第三の道があると思うんです。
大沢:それがようやく伝えやすい時代になったんだと思うんだよね、インターネットも普及して。断捨離のやましたさんはうまく伝えているよね。

小針:最近、「ゆるすこと」が大事だと思いました。病気を治したい、ダイエットしたいという気持ちの裏には、今の自分はダメだというのがあるじゃないですか。それとは全く逆転した発想でゆるしていくことで病気がよくなる。
大沢:断食の場合、とりあえず生理的な、カラダ的な入口は作っておいてね。それはそれでこの世的にも大事なことだからね。やましたさんが「かたづけ」からは離れないで、心だけに行かないで、そこをベースにしているのと同じように生理学的なベースは大事。
小針:肉体に限ったアプローチでも効果はあると思うんですよ。人間の存在は肉体と精神が重なり合っているから。いろんなアプローチがあっていいし、断食は肉体にも心にもガツンと効かせられるというのは魅力的なところ。
大沢:体への効果は確実にあるからね。
小針:それは動物実験で、マウスやハエなど高度な意識がない存在にも効くということは、プラシーボは一切ないんですから、確実に肉体に効いているんです。

大沢:手放す、ゆるす、近いところがある。執着だね。絶対許せないとか、こだわっているとか、これを認めてもらえないと許せないとか、これが解決しないと、それは心のしこりだよね。それがいろんなところでとらわれとしてあるんだと思うんだよな。
小針:それは良かれと思ってとらわれているんですけど、結局自分を痛めつけているということに気がつかないと。
大沢:食べるということも同じだと思うんだよね。これがいいとか悪いとかさ。それすらも離れて。
こちらが何かを教えるんじゃなくて、体験を通して自分なりの気づきを深めていける。そこは一方的なセミナーと違って。それぞれのテーマと向き合ってそれぞれの気づきがある。

小針:伝統宗教も新宗教も、動機は死別や病気、苦しみですからね、そこから深い心の世界に入っていく、断食だって同じことですよね。
大沢:具体的な苦しさがあるからこそ、ちゃんとやろうと思うんだよね、趣味で終わらないでね。死ぬほど苦しいから、死ぬほど何とかしたいっていうね、それで自分の欲にまじまじと向き合う。そして苦があったからこそ、幸せを感じられる。

小針:さんざん苦しんで、その分を取り返さなきゃとか、なんとかしなきゃとなりがちなんですけど、そうではなくて、それでよかったんだと過去を許しちゃうという。
大沢:その転換が必要なんだと思うんだよね、今までの方向は、苦しいからもっと頑張ろう、いつまでも、もっともっと苦しくなっちゃう。
小針:それを断食が煽っちゃった面があると思うんですよ。
大沢:それを煽る方向でいてはダメなんだ。今までの自分のやり方をさらに強固にするでさ、乗り越えようとする、それこそが病気の元だよね。その勢いでますます食をストイックにしたり、あれもダメこれもダメを増やすようでは。
小針:明日階段から転げ落ちて死ぬかもしれない、明日は分からないわけで、今をどう生きているかですよね。

大沢:足るを知るというのも、本当はやりたいのに我慢をして、これで満足しようというのではダメだと思うんだよね。本当はもっとうまいものも食いたいし、買いたいのに、そういうのはよくないことだから我慢しよう、これで満足しなきゃいけないんだというのではダメだと思うんだよね。ご馳走もいいけど粗食もいいいよねと、心から、やせ我慢ではなくそう思えてね。
小針:自分に嘘をついてやるのはよくないですよね。
大沢:そういう感性を取り戻す効果って断食にあると思うんだよね。最初は我慢で入ったとしても、帰るときは我慢しないで、こういう食事もいいな、これぐらいでもちょうどいいなと、体で分かって、そこには我慢することはなくて。
それがだいたい足るを知るというと、どこか痩せ我慢的な思想が見える。
小針:偽善者ですよね。
大沢:楽しめることは存分に楽しんでさ。自分のやりたいことはやって。それが無限な欲に基づくものでなければ。
小針:若いうちから知足じゃなくてもいいと思うんですよ、ある程度成熟してきて、そうなっていけばいいんですけど、枯れないからおかしなことになっちゃう。
大沢:生理学的にも繁殖していく時期というのは、ある程度膨らんでいくというのが普通で、そのための欲であり、性欲であったり食欲であったり、いろんなものを欲しいと思ったり、でもそれが必要なくなったら、欲を拡大させていくというのは破滅の道だよね。

小針:僕が断食したとき、最中は辛かったですけど、終わったあとなんでもありがたいという気持ちになったんですよね。食べることに限らず、妻の行動とか、今は全然ないんですけど、一生続けばそれに越したことはないんですけど。実際そうなったんですよね。だから食事に限らなかったんです。
大沢:そうなんだよ、食って生きるっていうこと、そのもの、基本になるところだから、そこがありがたいという気持ちになると、生きていること自体とか、生きているという感じがすると思うんだよね。日常の生活の中でさ、生きている実感というのは、便利になりすぎた社会で感じることがなくて、例えば震災の後とか、大きな病気をしたりとか、家族を失ったりとかすると、辛いけれども生きているという感じがするんだと思うんだよね、必死なところで。そういう生きている実感というか、当たり前に日常がありがたいなと理屈じゃなくて腹の底で感じるのを、それを家族を失ったりとか大きな失敗をすることなしに体験できるのが断食なのかなと思うんだよね。
小針:転ばぬ先の杖というか、大きな病気をする前に先手を打ってそういう気持ちを持っていければいいですよね。
大沢:できれば日常の中で淡々とそれが感じ続けられる、それがまさに「やすらぎ」であって幸せなんだと思うんだよね。ところが得てしてそれが日常の生活に浸っていると忘れるんだよね。何かがない、「もっともっと」っていう気持ちも出てくるよね。刺激にさらされてきて、当たり前の小さいことじゃ喜びって感じられなくなってくる。欲望のリセットだと思うんだよね。たまのご褒美みたいなものがどんどんエスカレートして、もっとご馳走、もっと刺激的なものを、みたいな感じになってくる。どこかでやっぱり行き過ぎた欲望をリセットしないと喜びどころかむしろ苦しみの種になっていくよね。

小針:だから断食の多少の苦しさもいいんですよね。
大沢:そうなんだよ、それ人生と同じだと思うんだよね。悲しみも辛さもあって、それがさらに日常の幸せを輝かせている。光と影というか陰と陽というか。

大沢:もしかしたら断食にもとらわれすぎなくてもいいのかもしれない。断食の本質というか、何のためにそもそも断食をするのか。そこがきちんと伝わって、気づいてもらえれば、断食をさせたいわけじゃなくて、断食を通しての気づきを得て欲しいということだからね。必ずしも断食という形で主に提供していくのではなくて、断食じゃなくてもそこに気づいてもらえれば食事でもいいし。

小針:都会で忙しい生活をしている人がよく言うのが、「温泉行きたい」なんですけど、温泉行っても結局ドーンとご馳走が出て欲望煽られて食べなきゃ、朝ごはんもたくさん出て食べなきゃみたいな、観光地もあっちも行かなきゃ、こっちも行かなきゃで全然癒されないと。でも本当は「温泉行きたいな」っていう気持ちの中には、全然違う環境でなんにもしないでいたいわけですよね。
大沢:なんにもしないつもりで行ったのが、あっちも行ってこっちも行って、写真も撮ってフェイスブック載せてみたいな、それをしたくなくて、離れたくて行ったんでしょう。あらゆることをやめてみる、離れてみる。
小針:だからやっぱり「しない贅沢」ってあると思いますよ。
大沢:あるよ、今の時代だからこそね。
小針:することはいっぱいできるんですから周りで。
大沢:しすぎてみんな疲れている。あらゆることが過剰なんだ、食べるということだけじゃなくて。それこそが本当の休むということだし、リゾートの本来の目的でしょう。保養とか休養とか養生とか。
小針:一息ついて心も体も元気になって、また自分の役割なり仕事なりで人の役に立つということが大事なのに、そうやって一息つくところでもまた自分の心と体が疲れちゃったら全く意味がないですよね。食べないということは最も象徴的なことですけど、それ以外でもしないということは大事ですよね。

大沢:断食で何を伝えたいのか、断食という体験を通して。
小針:こころに効く断食ですか、体に効くのはもとより。やましたさんが断捨離で伝えたいことは、その後出た本のタイトルで「俯瞰力」とか「自在力」とか、新しいキーワードが出ていますよね。
大沢:自由自在なんだよ、いつもご機嫌でいられて、何かにとらわれていないと、そして、その時に自分が本当にやりたいことを自分で決めて自由自在にやっていこうと。自分のとらわれを見つける手がかりが自分の周りの散らかった状態がわかりやすい例だよということだよね、それをたまに削ぎ落としたりしながらとらわれないでいこうと。
小針:俯瞰力って言い得て妙で、やっぱり不幸って結局、狭い視野でこまごまとやっていて不幸なんですけど、視野を広げると全然不幸じゃなかったり。神の視点というか悟りなんですけどね。
大沢:俯瞰するためには、なにかやっぱりショック療法みたいなのが必要なんだよ。そうじゃないとそれまでの視点って変えられないから。何か出会いがあったりとか、なにかの大きな気づきが体験を通してあって、それまでとは違うところから見たときに、なんだこれはいいじゃんそれで、なにをこだわっていたんだろうと。
小針:それが宗教体験とか神秘体験ができる人はいいんですけど、一般人はそういうことがないので。
大沢:断食ってまさにそういう視点を変えるショック療法みたいなものだよね。
小針:「視点を変える」というのはいいですね。
大沢:なにか「手放す」というと抵抗を持つ人がいるかなと思うんだよね。手放したくないのに無理やり手放させられるというか。
視点を変えるためのショック療法。
小針:全焦点が合うメガネに変わるみたいなものですよね。間違って老眼鏡を若い人がかけちゃったみたいな全然近くしか見えないというのではなく。くっきり全部に焦点が合う感じになる。それは全然不自由でもないし、むしろ快適なんであって。それが今まで知らず知らずに度の合わないメガネをかけている感じですよね。見えているようで全然見えていなかったという。

大沢:断食をしたあと、自分で気がついたことで、ありがたいという気持ち以外になにかあった。
小針:2週間、隔離されているような感じでした。病院のベッドで、いびきのうるさいじいさんが隣にいて、浣腸毎日やれって言われて苦しい思いをして、温冷浴で苦しいことやって、だからやっぱり本当にシャバに出たという感じで、自由な感じもありましたよね、自分でどうにでもなるという、全能感じゃないんですけどね、自分の人生どうにでも切り開けると思えたんです。今までそれができない隔離された環境だったから。出て、ケーキも大人ですから大人買いして食うこともできるわけですよ、そういう自由も与えられているんですけども、それもしないでいられる自由もあって。そういう自由な状況が広がるんですよね。そこであえてケーキを食べないでいる自分良しみたいなところもあったりして。おもしろい経験でした。だから苦しいことも、隔離もあながち全然悪くない、世界がわーっと広がる感じがありました。血糖値が下がるのか、ひもじいからか、結構ネガティブな感情とか鬱々とすることもあるんですよね。でも食べ始めれば高揚して希望の感情って出るので、そのギャップも、自分の中でその二面性もあって。
大沢:そう、だから生と死なんだよね。一回死んで生き返るみたいなね。
小針:死の体験をするって言って棺桶入って葬式上げるみたいなアトラクションがあるじゃないですか、あれ馬鹿にできなくて、やってみたらかなり気づくことがあるんじゃないかなって思うんですよね。
大沢:食べものを断たれるって、そのリアル版みたいなところがあるよね。人によっては断食反応で本当にえらい目にあって。
小針:一回死ぬっていうイメージでいいと思いますね、実際、死人は食べないし。もう一度生を与えられた時の、なんていうかラッキーな感じってありますよね。生き直しというか、一旦死んだんだけどラッキーなことにすぐに生まれ変わりを許されたみたいな。
大沢:生きているという実感なんだよね。生きている、生かされている。

小針:あとこれは日本人だけなのかもしれないんですけども、なにか欲望を抑えるというか、節制することの美徳みたいなのも感じるところもあると思うんですよね。
大沢:ある。日本人のメンタリティだよね。禅の思想につながるような。
小針:抑えているな、抑制しているなという感じが自分の中で誇らしかったり、美徳として感じたり、断食は日本人の心をくすぐるんですよ。
大沢:やっぱり余分なものを削ぎ落としたいっていうのが、みんなあると思うんだよね。これは本当に自分にとってどうしても必要な物ではないというのを本能的に。例えば自然の中の動物が何も持たないで野山を駆け巡っているみたいな、ああいう自由な感じ。
小針:むしろそっちの方が自由。自由に思っていろいろやるんですけれども、むしろ抑制していった方が自由だったりする逆説。荷物がない分動き回れる自由もあるし。
大沢:何かがなければというとらわれからも離れているから。

大沢:俺の感覚からしたら、生きているという感じは、若い頃に東南アジアで、明日行く場所も全然決めないで、それから先一ヶ月後、二ヶ月後も何の予定もなくて、いたいと思ったらいつまでもいられるし、帰りたいと思ったらいつでも帰れるし、あのなんにも決まっていない、あの開放感というか自由な感じ。ものすごい生き生きとしていたんだよ。
小針:何をしてもいいという選択権が与えられている。
大沢:なんでもできる、なんにも持っていないけれどなんでもできるというね。ところがいろんなものを手に入れて、いろんな保証ができてきて、その安定感というか安心感、これを全部捨て去るのがいいかというと、この安定感をちゃんと持ちながら。要は気持ちの問題なんだと思うんだよね、とらわれているという、日常のいろんなことに。例えば何も田舎暮らしをしなかったとしてもね、都会に住みながらも自分の気持ちが田舎暮らしをやっている人の気持ちになれば。田舎暮らし自体は必要ないのかもしれないんだよね。都会にいながらでも、自分の置かれている環境の中で、いくらでも田舎暮らしはできるんだと思うんだよね。
小針:都会にいるからって都会人である必要ないんですよね。
大沢:逆に言えばさ、田舎にいても都会と同じしがらみの中で生きている人は山ほどいるわけでさ。むしろほとんどはそうでね。そういうのを含めてのリセットというか。

小針:断食をする前と、した後だと、する前はモノクロの世界に住んでいたのがカラフルに変わるみたいな、ヴィジュアル的に言うとですね。そのぐらいの転換点にはなるだろうなと。恋愛に似ているかもしれませんね。鬱々と「彼女欲しいな~」なんて言ってて、大好きな人と結ばれたとき、全く世界が変わるじゃないですか。
大沢:何も変わっていないのにね。自分の視点というか、感じ方が変わっただけなんだよね、世界はまるっきりその前と同じ。お店で同じものを食って同じことをやってたとしても、BGMまで違って感じる、急にテンポの良い曲がBGMに変わったみたいに。いろんな刺激的な方法で、それを無理やり作り出しているんだと思うんだよね。もっともっともっとって感じでね。
小針:外側でいろいろ演出しちゃってるんですけど、心ひとつで変わるし、そっちが本当なんですけどね。
大沢:それを保っていられれば本当は一番いいんだろうけども、それが自分だけじゃできない人もいる。
それを食の観点から見たらどうなんだろうね。今の話を食っていうところ、モノクロがカラフルになるみたいな、毎日の食事でもそうだよね、普通の変わり映えしない家の食事を食ってて、それがある種モノクロだったとして、同じものを食ってて、それがカラフルな味わいになる。断食をしたあととかね。
小針:僕が思うのは、そこに縁を感じるとカラフルになると思うんですよね。例えばそれまで食事を食べていたけれども、それがなにかこちらから働きかけていいものを取り寄せてとか、高価なものを食べてとはまたちょっと違って、粗末なものでも、お母さんが作ったいつもの料理でも、ここでなにか自分と料理とがすごく尊い縁で結ばれるとカラフルになるんじゃないかなと思う。それは結局、健康食とか食事療法もそうだと思うんですけど、選り好みして何かやるっていうには、最初はみんなそうなりがちなんですけど、それってなんだろう、とらわれとか我欲の温床で、無農薬がいいとか有機がいいとか、それを食べてて優越感に浸ったりとか、そのあり方って変だなと思っていて。そうじゃなくて、やっぱりそのときどきに出会った食事って、これ人との縁といっしょで、それをどう感じるかとか、どう活かすかということなのかなと。
大沢:外側の方を高めていくのか、内側の感受性を高めていくかだね、どんなものでも美味しいって感じるような感受性を身につけていく。
小針:内が高まってくると、自然にそういうものを引き寄せてくると思うんですよね。人の縁もそうですけど。お膳立てしてもらったところでこっちが全然ダメだったらダメなんですけど。今置かれた立場で、こちらが高めていけばおのずと、人もいい人が寄ってきたりする。それは人も食事もいっしょだろうと思っているんですよ。なんか背伸びして有機野菜だ、健康食品だって、なんか欲を感じちゃうんですよね。
大沢:それがまた、そこに悪いってのがなくて、私いいことやってるんだと思っているから。
小針:人に押し付け出したりとか。
大沢:正義を押し付けるところがあるから、より始末が悪いよね。これが欲望のままに食い散らかしている人だったら、自分がやっていることを必ずしもいいと思っている人ばかりじゃないから、こんなことしたら良くないなと思いながら、だけどやめられないからやっているんだっていう、まだどこか謙虚なところがあるから。
小針:まだ善人。
大沢:まだいいやね。私がやっていることだけが正しいんだって思いながらやっている人って、その正義を無理やり押し付けてきたりとかするから、それはタチ悪いよね。欲の塊だよね。
小針:それじゃないんですよね。
大沢:それじゃないんだ。そことは違うんだというところを伝えたいんだよね。そうじゃないと、生理学的な効能を訴えれば訴えるほど、そっちの方を刺激することになるから。それは糖質制限も同じで、それはそれでひとつのテクニックとして悪いことじゃないけど。そこは一応知識として知っておいてよ、生理学的な事実だよと。ただできたらそこで止まらないで、もっとこっちも大事にしていこうねと。逆にこっちができればもうテクニックは必要ないよと。糖質であろうがなんであろうが過剰に摂取するのが良くないんで、適度なところで止められれば。糖質が何gだなんてまさに。
小針:そこは食事も人間関係も一緒で、縁があって出会った、そこには節度があると思うんですよ、べったりしたり、食事も縁があるからって食べ過ぎるわけじゃなくて、間合いと節度があった中で縁を活かしていくというのは人間も食事もいっしょだと。それが本当の食養だろうと。

小針:世界を敵に回すと、環境問題にしても息苦しくなってくる。無菌状態じゃないと生きられなくなってくる。
大沢:ものすごく不健康だね。
小針:結局デトックスって発想も周囲を敵ばかりにするっていう意味じゃどんなもんなのかなって。
大沢:断食って一歩間違えるとすごいそうなりやすいんだよ、自然食と一緒で。食べること自体が良くないとか。とらわれから離れるためにやっている行みたいなものなのに、さらにそれがとらわれを増やしていくということであったら良くないよね。
小針:陥りがちなのは食べることに嫌悪感が出たりとか、食べる物がなんだか悪いものに思えちゃったりとか。
大沢:より美味しく食べるために、よりありがたく、食べる喜びを知るために食べない体験をしているんであってさ。
小針:やっぱり、すべてに縁を感じられるためにだと思います。自分から何かお膳立てしてっていう自力の考え方って周囲を敵ばかりにしていくなって。受け入れるというか、置かれた立場で感謝して生きる。言葉にするとなんかお説教みたいになっちゃうんですけど。でもそれが永続的な幸せだと思うし、生きやすさ、「やすらぎ」ですよね。やすらぎの反対は生きづらさですから。とにかく健康業界は生きづらさを煽るものばっかりだと感じるんですよね。
大沢:それはやっぱりひとつのビジネスモデルじゃん。不安を煽って、このままじゃやばいよって洗脳してさ、やばいからこれを買ってこれを食べようってさ。そっちじゃなくてこっちにしようって。

小針:断食中に湧き上がる食欲を卑しいと思いがちだけど、それは全然OKだよと、むしろ自分の生命力が出てきて元気なんだから。むしろいいことなんだっていう発想に変えたほうがいいよって。食べ過ぎちゃうっていう人は自分の食欲が卑しいとか、口が卑しいとか言う人がいるんですけど、むしろそれは元気で、生命力だよっていう発想が大事かなと。だから断食って食の否定じゃないですよね。食べることの否定じゃない。
大沢:そこが伝えられたらいいよね。食べることってやっぱり嬉しいよねって、食べることって生きることそのものだよねって。それに気がつくというか、そこにちゃんと深く気がつくからこそ大事に食べようって思うよねって。ありがたく食べようね。食事って大事にしたいよねって。
小針:そこの自分の食欲を認めないで、食べることも食材もあったもんじゃないんですよね。
大沢:食べるありがたさに気づくために食を断っているわけで。食べる喜びに気がつくために。その喜びだとかっていうのを適当に安っぽいもので満たしてね、なんか満足した風にしていたけども、それは本当に喜びだったのっていうね。そうじゃなくてしみじみと本当に美味しいなって心の底から思えるような美味しさっていうかね、それを我々は伝えたいなって。そのために一回お腹を空かせてみようよと。それでもラーメン食いたかったらラーメン食えばいいじゃんとね。本当に食いたいものだったら食って病気になってもいいじゃんと。あなたの人生なんだからとね。それ食って死ねたら本望じゃんとね。
小針:極論そこですよね。別に長生きするのをいいと思っていませんしね。そこを僕は自分をゆるすってことにつなげたんですけどね。食欲とか生命力を認めないといけない。人間ってすごいんだな、生きてるんだなって食欲からでもわかるし。
大沢:生きることそのものだよね、食欲とか食べたいっていう欲求ってね。それをきちんと認めてね。
小針:断食って逆に行きがちだと思うんですよね、食べないことがいいことだから、そんな食欲が出てくるのはダメなんじゃないかとか。
大沢:やっぱり食べるってことは喜びだし、本能と直結しているところだし、それは生きようとする力そのものだしね。ただじゃあ今までのその食欲って本当に心の底から来るものだったのかと、本当に食べたくて食べてたかと、本当に自分が欲するものを食べていたかと。それをこの機会にもう一回、自分で考えてみようよと。
小針:中途半端な偽物の食欲じゃなくて、本気の食欲を味わってみる。本気の、そしたらわかりますよね、自分スゴイっていうのと、何が食べたいっていうのが明らかに分かります。やっぱり今まで中途半端な食欲だったんですよ。現代人は特に。
今までの空腹は習慣の、時間が来たからお腹減るみたいな、本当の体の食欲はその先にあったと。
大沢:偽の食欲を超えたところに
小針:マジな食欲があることは断食してみなければわかりませんからね。
大沢:偽の空腹を超えた先にある本物の食欲。
小針:本当に腹減ったっていう、お腹ペコンペコンの。野生動物にはあるんですよね多分。
大沢:そうだよ、それはさあ、素材をそのまま食ってればさ、本当に腹減らなきゃ食わないんだと思うんだよね。
小針:中毒性もおいしさもないか。
大沢:毛がついたままの肉を食うみたいな、それでも食いたいか肉をということだよね。生の獣にかぶりつくくらいの。動物だって人間みたいなもの食わしたら、あっという間に死ぬまで食うよ。それがペットだよね。あっという間にメタボになって、病気になってっていうのが目に見えてるよね。アレルギーになったりとか。我々はまさにそういうので翻弄されているよね。本当の食欲じゃなくてね。いろんな快楽を刺激するような加工されたもの。
小針:動物は完全空腹を待って素材を食べていると。人間は完全空腹を待たないで、ただの刺激を食べていると。動物に還ればいいんですよね。素材でもうまく感じる方法なんですね。
大沢:本当に腹が減れば、それでも美味しく感じるんだと思うんだよね。
小針:青草でも笹の葉でも。
大沢:玄米マズイとか、野菜が好きだとか嫌いだとかっていうのは、それは腹が減っていないで食ってるからだろうという話なんだよね。本当に腹が減って食ったらさ、なんだってうまいし、なんだってありがたいし、理屈じゃなくてやってみろって話だよね。そしたらそこから何か気づくことがあるよ。
小針:パンダは笹の葉を食べるじゃないですか、人間より味蕾が発達しているそうなんですよね。こっちサイドが美味しく感じるようになっているという。無味乾燥な笹の葉もうまいうまいって食えるようになっちゃってる。そういう風に進化しているんだと思って。
大沢:そうなんだろうね。そうじゃないと食おうって欲求がないよね。人間が笹の葉なんか食おうなんて思わないよね。それはそれしか食えないから長い歴史の間で、それでも美味しいって感じる感受性を鍛えているんだよね。
小針:感受性なんですよ。それが舌であるか、心の味蕾なのか。人間は舌の味蕾を増やすことはできないかもしれないけれど、心の味蕾は増やすことはできると。美味しいって感じられるようになりますよ。

大沢:断食というところにとらわれないで、食に対する気づきだと思うんだよね。それが食で止まらないで、生き方とか、そういうところに迫ってくるような気づき、それを食の面から伝えていく。それが食べ過ぎるなよとかいうメッセージではなくて、食べるってやっぱり嬉しいことだよねって、食べられるって素晴らしいよねって。
小針:今までもこれからも食べなきゃ生きられないのに、それを否定するってことは意味のあることじゃないですよね。
大沢:より美味しく食べるために、より深く食べる喜びを知るための断食であり、食養生でありってことだよね、
小針:生まれてこのかたずっと食べ続けてきて、僕も30数年食べ続けてきたら、どの世界でもベテランじゃないですか、なのにベテランになりきれていないってところありますよね。毎日3回は練習しているのに、ベテランになっていないのはどういうわけだってことなんですよね。深まっていないという。それはどんな芸事でも30年やっていたら相当なものですよ。
大沢:食べることの学び直しだ。知識じゃなくて体験としてね。そこを深く考えることもなく、感じることもなく、ただなんとなく、惰性で、見せかけの食欲で、外側から刺激されたものに、ただ反応するだけ。それで病気になって、それじゃあまりにもさみしいだろう。もっと深く味わって、自分で納得できるものを食べて、それで病気になるならそれはいいじゃん、本望だと。だけどそれが本当に分かれば、たぶん食べ過ぎることもなくなるし、今よりもそんなに食べなくなるし。
小針:食欲も元気だからあるっていうのと一緒で、病気も元気だからなれるんだよってことなんですよね。そこも言いたいと思って。
大沢:そうだな。食べ過ぎるのも元気な証拠だよ。
小針:太れるのもそうですしね、なんでもそうなんですよ、ありがたいことなんですよ。自分の体ありがとうなのに、ダメだダメだと言ったり、病気がなんだとか言ったり。病気ぐらいで済んでいるんだからいいじゃないかと。
大沢:そうだね、死んだら太ることもできないし、食うこともできないしね。
小針:贅沢すぎますよね。
大沢:ガンになってみたら、太れる喜びとか食べられる喜びとか、よくよくわかると思うよね。だからこそちゃんと味わおうよということだよね。本当にちゃんと食べたいものを選んで食べようよ。これを食って病気になるんだったらそれで本望だ。そのくらいの覚悟で選んで食べようよ。(了)

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