「山の行より里の行」という言葉があります。
修験者の心得として、山の修行で身につけた功徳を里で実践することを言ったそうです。
裏を返せば、自分だけの悟りを求めて突き進んでしまいがちな人情を表しているとも言えます。
妻子を捨て、山にこもって厳しい修行を行う。
尊い生き方にも思えますが、無責任な生き方とも言えなくもないわけです。
家族との調和をはかり、生活の安定のために働くという、当然のことを踏みはずして、その環境から逃げるように「悟り」「修行」の美名にすがりついていく。
よっぽど俗世間の悲喜こもごもの中にこそ、気づきや学びの機会があるのであって、人格を高めることになるという皮肉も混じっています。
旧来の断食ないし、断食施設というものは、「山の行」の要素があったことでしょう。
一定期間、日常から隔絶した環境で、自らに厳しい断食を課すことで、肉体的な健康を回復したり、精神を研ぎ澄ますことを期待していました。
その点、「やすらぎの里」は日常生活の理想のあり方を提案し、それを身をもって実践していく場であり、きわめて「里の行」的と言えましょう。
「やすらぎの里」というネーミングも、味わい深いものだなとしみじみ思います。
地に足のついた、生活に根ざした本質的な方法を提案していること。
そして、心身が好転していくときには「やすらいでいること」が大切であることを見抜いている点です。
自然治癒力が最大限発揮される条件は、力み、こわばり、とらわれ、はからいの反対だと思います。
病気をすると、往々にして「治りたい」という気持ちでいっぱいになり、原因を他物に求め、周囲を敵ばかりにして、前のめりに力が入ることで、心身をこわばらせ、結局、自然治癒力を減退させてしまうことになりかねないのです。
何が何でも自分で頑張る、自分の力でなんとかする、自分の思い通りになる、と考えるところに、やすらぎは生まれづらいのではないでしょうか。
言い換えれば、感謝の気持ちが芽生えづらいということです。
自分の力によるものであれば、正当な対価、報酬を要求することは当然です。
その反対に、自分の力でできることは限られている、周囲の恵みに生かされているのだと考えれば、いかなる報酬であっても、不満は起こらないのです。
何かをもらったり、自分に都合の良いことをしてもらった時に「ありがたい」と思うことは誰でも出来ることです。
犬や猫でも餌をもらえれば尾を振り喜びますが、物質的、利己的であることでは同じことです。
ところが人間ともなれば、自分の都合の良いことは当然として、すべてに対して「ありがたい」と思えることができる存在なのだと思います。
与えられるサービスの質や量、サプライズによって感動する心は、一時のもので、数を重ねれば、悲しいかなそのうち慣れて色あせてきます。
つまり、外に豊かさを求めるのではなく、内を豊かにしていくこと。
日常における不幸な出来事や、病気、苦痛など嫌で堪らないことに対しても、自分を磨いてくれるものだと感謝できてこそ、本当の意味での永続的な「やすらぎ」があるのだろうと思います。
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