病気の原因を3つに分けてみる。
「肉体的な原因」
これは不摂生や過労などによるもので、生活習慣を見直せば改善される病気。
致死量の毒物を体内に取り入れれば死ぬわけで、不摂生という、いわば緩慢な毒性によって蝕まれれば、当然肉体に支障をきたす。
「精神的な原因」
本心や感情を抑圧することにより、生命エネルギーが鬱滞し、心身に不調をきたすもの。
日頃の心がけや思い癖が影響する。
「形而上的な原因」
先天的な病気や障害など避けられない病気。今生だけに原因を求めることが難しく、過去世からの因縁や菩薩行としての病気を想定することで、この世の不条理を解決できるもの。
この3つを混同するところに、もがき苦しみがある。
肉体の節制をすれば健康が獲得できると、禁欲的な生活に努めて、なお思い通りに病気が改善されず、精神的にいよいよこじれていく。
心がけや思い癖が悪いと自分を責めてばかりで、それがストレスとなって、生活が乱れ肉体が破たんしていく。
実際、原因が単独であることは少なく、多くは複合的に絡み合っているものだろう。
不摂生の限りを尽くし、命を縮めることは、自らに対する背信行為であると思うが、一方で、肉体の節制、禁欲的な生活のすべてををよしとするものではない。
それは、病気が肉体的な原因に限らないからである。
いくら健康的な食生活に努め、運動を励行し、十分な休息をとり、理想的な生活習慣をしていたとして、寿命には抗えない。
それならば、初めから肉体にとらわれず、のびのびと生きていた方が、むしろ健康度を上げたかもしれない。
健康に対する関心や取り組みが、押し付けられたものであったり、本心に背いたものであったなら、それは意味をなさないばかりか心を痛めつけ、新たな病気の原因になりかねないからだ。
一般的に、無病で、痛みや苦しみが皆無で、まったく体を意識することがないくらいの快適な状態を、健康であり幸福とするのかもしれない。
その実現に躍起になるのは人情であっても、こうした完璧な健康状態は幻想であることに早晩気づかなくてはならない。
理性的に考えれば、この世に生まれた時点で、人間はみな死に一歩ずつ確実に接近している。
成長期を過ぎれば、老化、劣化の一途である。
その現実主義に立脚すれば、限られた時間の中で、何をするかが重要となる。
人にはそれぞれ、生まれてきた意味、つまり使命や役割があると信じている。
当然、それぞれの人生における優先順位は違っていいはずだ。
仕事に生きる人にとって自分の健康問題は二の次かもしれない。
それを他者からとやかく嘴を挟まれるのは、おこがましい越権行為であって、反発を招きこそすれ、望む変化は期待できない。
両者には徒労感だけが残る。
あえて極論を言えば、皆が模範的な生活を送る必要はないということだ。
人類が一様に仙人になってしまっては、この世界のカラフルな彩りは、単色のつまらないものになってしまう。
完全円満な聖人君子のような者ばかりの、のっぺりとした均一の世界があるとして、そこに果たして胸が張り裂けそうな恋愛や、血沸き肉躍る感動や、心揺さぶられる学びがあるだろうか。
いろいろな個性を持った人々が寄り集まり生活するところに、悲喜こもごも無限のドラマが生まれる。
つまり、不完全さという個性があるところに、人間としての進化向上の契機があるということだ。
陰徳を積んでも、宿命的な病気は避けられない。
自己犠牲、献身の代償に健康は得られない。
肉体の摂生に努め、清浄な精神を保ち、宿命を覆すこともできるかもしれない。
それは機根の優れた素質のある者が、満を持してやればいいのであって、下根の凡夫が背伸びをして行うことにどれだけの意味があるだろうか。
完全無欠な存在は畏敬の対象ではあっても、莫逆の友とはなりえない。
不完全な他者に惹かれるのは、不完全な自分を愛することの裏返しに他ならない。
あきらめて、開き直る。
そして軽やかな一歩を踏み出したい。
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