やすらぎの里養生館

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【養生ブログ】人間にとっての自然

僕は結婚願望がありました。

とはいえ出会いがなく、ある時、慕っていた曾祖母の墓参の折、墓石の傍らに腰かけ、しみじみと「おばあちゃん、結婚したいんだけど、いい人と縁を結んでくれないかな」とお願いしたことがありました。

それが通じたのか、ほどなくして今の妻と出会い、短い交際期間を経て、とんとん拍子で結婚に至るのです。

結婚ともなると、当事者の問題だけでなく両家の合意というものもあるように感じています。

それは今を生きる世代だけでなく、ご先祖を含めて。

それを感じさせるくらいの追い風が吹くときがあります。

同様に、子供を授かるということも、もちろん当事者の体調もありますが、僕は家系の存続を願うご先祖様の援護も欠かせないと考えています。

過去に不妊症の方に向けての文章にこう書きました。

「往々にして、寄る年波とせめぎあい、切迫して戦々恐々としがちな不妊治療ですが、たまには穏やかな心境で亡き祖先に手を合わせてみるのも、感謝の気持ちを思い出す良いきっかけになるでしょう。連綿と受け継がれた命脈の末端に位置し、次代にバトンを渡そうとするとき、いかに自己を超えられるか。」

全文はこちら→「誰がために」http://ameblo.jp/detox-hakase/entry-11328314502.html

僕は当初、手技療法の勉強から始めました。

その歴史を紐解き先人から学ぶこと大でしたが、一方で名人ともなると人知を超えた、神がかりともいえる特殊能力のなせる業と思えることもありました。

人間は修練を積むと、第6感が開眼する。

それは手技療法に限らずあらゆる分野で共通のものとも思えます。

とはいえ、現実離れした神秘的な所業だけに目を奪われるのではなく、本質を見極めたいと思うのです。

近代日本を代表する伝説のヒーラーに松下松蔵がいました。

常識では考えられない奇跡的な治癒を行いましたが、その条件として忠、孝、敬神、崇祖の実践を提唱していました。

「人間には、神の定め給うた人間道がある。忠、孝、敬神、崇祖の4つがそれだ。この4つさえ正しく行うなら、悪因縁のない人間なら、断じて病気をするものでない。よしんば先祖の罪の累積を背負うて生まれて来ても、重荷は、神の助けで軽くして貰えよう。特にこの中でも孝行は大切で、親孝行する程の者は、君にも忠義であり、祖先を崇び、神を敬うに相違ない。
実に孝は百行の本じゃからのう。」

つまり、病気の治癒という現世利益を叶えながら、人としての道を諭し導いていくというやり方です。

奇跡は方便、デモンストレーションに過ぎなかったわけです。

ところが、とかく宗教というのは、敬神崇祖の名のもとに、高価な仏壇や、墓石の購入を勧めたり、多額な布施を要求するなど、拝金主義に陥り堕落するものが多いのも事実です。

人は何かに依存したり所属することで安心を得て、連帯することで心強さを持てるのであれば、その良さもあるわけですが、いずれにしろ真贋を見極める審美眼を養うことはもとより、宗派、団体に属していても、属さなくとも、自らの心の持ち方こそが重要であることを肝に銘じておく必要がありそうです。

巷間流布される、「墓参りを怠っているから家運が傾くのだ」とか「墓参りに行けば開運する」といった類の言説。

墓参りに来ないからと言って、ふてくされたり、罰を与えようとご先祖様は思うだろうか。

生きている時でさえ、そんな底意地の悪い人間にはなりたくないと思っているのに、死んでまで、いかにも俗っぽい幼稚な報復をしないと僕は思います。

ましてや血縁のある子孫であり、墓参に来てくれたら、かわいい子孫だなと目を細めることはあるかもしれません。

たしかに、先祖を敬える心の余裕と教養を持っていれば、当然仕事も家庭もうまくいくことでしょう。

線香の本数がどうだとか、お経の種類とか、これらも僕は死後いちいち細かいことを気にしないでしょう。

そう考えると、儀礼とか様式はなんでもよく、生前と同じような親近感を持ってもらえたらうれしいということです。

しかし、生前熱心に信仰されていた方は、形式を外れた供養をされたら目につくのかもしれません。

形式に心が伴っていれば、それに越したことはないのかもしれません。

ただ形が不完全でも心がこもっていれば、まったく問題ないと僕は思っています。

本質的に言えば、供養とは、先祖の都合や宗派の論理に規定されるものではなく、今を生きる我々の心のあり方に過ぎないのでしょう。

高額な戒名だから成仏できるのではないのです。

もし、子孫が供養のために大金を使おうとしたら、僕はきっとあの世から「そんなことより、自分や家族のために有意義に金を使ってくれ、なにより、僕のことなどあまり気にしないで、悔いの残らないように今を精一杯生きてくれ!」と叫ぶことでしょう。

今を生きる子孫の調和と成長がなによりの供物。

これが親心であり、一足先に経験したOBとしての務めなのではないでしょうか。

つながり食

「人間にとっての自然とは何か」これを追い求めることが人間の健康と幸福に寄与するとの確信を持ち、そして、生命の土台となる食事の問題は避けて通れないことであるとの認識から、ここ数年、研究を行ってきました。

しかし、つくづく人間にとっての自然食とは何か、というのはとても難しい問題だと感じています。

コアラならユーカリの葉を、パンダなら笹の葉を、単品で何千年も食べてきたのですから、今さら自然、不自然の議論も起こってこないでしょう。

ところが、人間は長い歴史の中で多種多様なものを食べてきました。

いろいろなものを食べてきたからこそ、複雑で幅広い思考を身につけ、高度な文明を発達させてきたといえるのかもしれません。

一方で、人間特有の病気の原因になっていたかもしれません。

先人の研究成果の中に、人間にとって自然な食のあり方で指標とされるものに歯の本数があります。

歯の構成比から、肉食、菜食、穀物食の比率を導き出したものです。

また腸の長さによって肉食、菜食、いずれに適しているのかを計る方法も提唱されてきました。

精神論や観念に寄らない、きわめて科学的、理性的な方法だと感じています。

それと同時に、それだけでは解決できない現代の複雑な疾病構造に思い至ります。

食に関わるここ数十年の、顕著な変化として、食品の精製度が飛躍的に進み、特に糖質においては、あきらかに人体に害になっているということです。

人間にとって何が自然であるかを計る指標として、それによって病気になるか、ならないかというのも重要ではないでしょうか。

精製された糖質は、その吸収率の高さゆえ急激な高血糖状態を招きます。

これが血糖値をコントロールする膵臓や各種内分泌系に与える影響は想像に難くありません。

現代人に蔓延する低血糖症や糖尿病がその典型的な例で、自然を逸脱した人間の食生活に対する警鐘といえましょう。

また慣行農業でつくられる野菜には農薬や偏った化学合成肥料が大量に使われていることも問題です。

土壌汚染も進み、野菜本来持っていた味が失われていることに気づく人は多いですが、当然栄養が損なわれていると考えるべきです。

肉や魚も同様で、飼育や養殖の方法に、いかに人為的で不自然な方法が導入されているか直視しなければなりません。

食材に対する冷徹な視点を欠けば、内実の伴わないうわべだけの健康食に終始してしまいます。

飽食の時代における「栄養失調」という逆説的と思える現象が、すでに日本を巣食っています。

野菜を食べればいい、という単純な問題ではなくなってきているのです。

これは食材の選び方から、調理法、食べ方に至るまでの再考を促すものです。

さらに人間的な観点で、人間にとって自然な食のありかたを提案してみたいと思います。

「つながり食」です。

今を生きる人間を中心に、三方向のつながりを意識してみます。

上下のライン、つまり天地とのつながりです。

それは天は気候、地は土壌を表し、その土地の食材を、旬にいただくという原初的なあり方のことです。

左右のライン、すなわち同時代を生きる人間同士のつながりを表しています。

食材の生産者や調理する人、さらには食卓を囲む人々との心の交歓を重視する精神的なあり方のことです。

前後のラインは時間、歴史です。

今を生きる人間の前には数え切れないほどの先祖がいます。

その人たちの苦労の上に、今こうして健康と幸福を願える時代に生きていられることを感謝することです。

また先祖が歩んできた歴史をみることで、何をどのくらいどのようにいただけば良いかおのずとわかってくると思うのです。

さらに、これから先の世代、子孫に対しても、負の遺産を残さないために今何ができるかを考えることも、人間としての自然性を考える上ではずせない視点であると考えます。

人間は、ただ機械的に食べ、糞をするだけの無機的な人糞製造機に終始したいと誰も思っていないでしょう。

他の生命をいただいて今こうして生かしていただいているのであれば、犠牲になった生命に報いるためにも、価値ある生き方をしたいと思っていいはずです。

このように空間、時間、人間のつながりに思いを馳せることができるのが人間だけであるに違いありません。

空間に対する畏敬
時間に対する感謝
人間に対する謙譲

そこに人間としての自然が、もっと言えば人間として最も輝けるあり方があるのだろうと考えます。

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